コーマック・マッカーシー『越境』

冬のマッカーシー祭り。『すべての美しい馬』からはじまる国境三部作の二作目。Amazonから届いた時、分厚さにびっくりした。650ページくらいある。

『すべての美しい馬』と舞台は同じアメリカとメキシコの国境、正確にはニューメキシコ州とチワワ州の境。時代はちょっと遡って第二次大戦がもうすぐはじまる頃。第二作とはいえ、登場人物はがらっと入れ替わって『すべての美しい馬』のキャラクターは登場しない、別個の話。主人公のビリーが捕まえた牝狼を故郷のメキシコへ連れていこうと国境を超えるところからはじまり、様々な事件に巻き込まれていく。

これは喪失の物語だ。メキシコに足を踏み入れるたび、ビリーは大切なものを失っていく。神話で異世界に迷い込んだ旅人みたい。異世界であるところのメキシコは風景も人も幻想的に描かれ、だれもが哲学的含蓄のある話を唐突に長々とビリーに語って聞かせる。

ビリーは最後までいろんなことを元あるべきところに収めようと奮闘するのだけど、それは思う形では実を結ばない。喪失って書いたけど、取り残されるっていう方が正しいかもしれない。

いつものことだが、エンターテイメント的オチを期待して読むとだめ。そもそも『越境』自体がそういう結末を許されない少年の物語になってる。『血と暴力の国』の語り部、ベル保安官が結局、殺し屋シュガーと対決できないように。それゆえに生き残ってしまうのだけど、何かが決定的に変わってしまい、元には絶対戻らない。

コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

マッカーシーの今のところ最新作。映画もやってたらしいんだけど、知らなかった。戦争かなんかで生物がほとんど死滅した世界で旅する父子の物語。

ショッピングカートを押して親子が旅するシチュエーションは『子連れ狼』を思わせずにはいられないけれど、拝親子が復讐の旅路なのに対して、『ザ・ロード』の親子はひたすら生き延びるために南へ旅をする。世界の荒れ具合がほんとひどくて、森はどこも焼けて炭だし、空は煤けて太陽は暗く、魚も鳥もいないし、いつも灰色の雨と雪。数少ないらしい生き残った人間の一部は暴徒になって、人間を狩って人肉を食べている。全編これ希望のない鬱道中だ。じっくり読んでるとつらくなってくる。

それでも物語の結末は、今まで4冊読んだマッカーシーのうち、いちばん希望を感じさせる。あんまり適切な言葉じゃないと思うんだけど、人間の善が残っていく希望がある。それが報われないとしても。

マッカーシーはやっぱりすばらしいです。うん。

テッド・チャン『あなたの人生の物語』

Twitterでおすすめされたので読んでみた。すごい人気作家なんだね、知らなかった。SFのいろんな賞を獲りまくってる。かなり寡作らしく、この短編集で2003年までの作品はすべて、それ以降も3、4作短編があるだけだそうだ。

おもしろい。とにかくよくできてる。すごい密度。寡作なのもよくわかる。こんなにネタが詰まってたら、毎回書くのが大変だろう。ハードSF級のネタがホームドラマ的日常空間で展開されたりするあたり、すごい技量。そしてSFで残念になりがちな人間ドラマは、いろんな角度から検証されてて視点がクリアで、非常に公平なものになってる。これはすごい。

でもそのすごさを若干不満に思うのも事実で、明晰すぎ、健全すぎと感じてしまう。贅沢だけど。過剰や欠落のスリルはあまり感じられない。へなへなのインディー・ロックの手触りがない。それが悪いわけじゃないんだけど……。

ジョージ・オーウェル『一九八四年』

ディストピア小説といえばこれ、という歴史的小説、なんだけど読んだことがなかった。イギリスでも「読んだふりをしてる本」のランキング堂々一位だそうで、なーんだみんなあんまり変わらないな! という。ちなみに新訳版。

とにかく徹頭徹尾いやな気持ちにしかならない。中盤の恋愛展開も死亡フラグ立ちまくりで「もう見てらんない」感じなんだけど、第三部の洗脳シーンはさらに上をいくインパクト。子供が親を告発する下りなんかも非常にリアルで寒気がする。子供は狂信的なゲーム大好きですよね。

ビッグ・ブラザー率いる党の支配するオセアニア(南北アメリカとイギリスを合わせた国家)は、ソビエトなんかの社会主義的な独裁全体主義国家を連想させるけど、描かれているのはもっと複雑なシステムだ。原著が出版されたのは1949年で、所々古さを感じさせる部分はあるけれど、それは些細なことだ。権力に対する洞察は強烈に心をえぐってくる。そもそもビッグ・ブラザー自体が、B級SFの独裁者的なそいつを倒せば世界が変わるという、わかりやすい悪役ではない。

劇中で使われる言語、ニュースピークでいう「二重思考」が非常に重要なキーワードになっていて、人間の認知や自己欺瞞への鋭い洞察になっている。オセアニアでは政治状況が変わるたびに歴史資料が全部書き直されるんだけど、その改変を把握したうえで党の公式発表を完全に信じるという、まさに二重の心理を指す。あり得ないと笑っていられないのは、現実にすごい頭のいいインテリが、変な宗教にはまっちゃうなんてことがあるからだ。オーウェルはよくわかってる。

いやになるくらい悲劇なんだけど、ぜひ一読をおすすめ。決して頭でっかちな理屈小説じゃない。