ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』

なぜか新訳は現代のカタカナ読みになってるケルアックの代表作。ビートジェネレーションとかなんとか。例によって本人はそのレッテルを嫌ってたそうだ。

全編ひたすらろくでなしが車でぶっ飛ばしてアメリカ各地で大騒ぎするだけという、すごい小説である。それ以外はなんもなし。金がなくなると働いたりたかったりして工面し、後はなくなるまで飲む打つ買う。ほぼ実話らしい。ちょっとすごい。しかしまあ、そんな生活の楽しそうなことよ。

自堕落なたかりの自己正当化ストーリーだ! って切っちゃうこともできるんだけど、結局のところ堅実な生活だから保証されてることなんかなにもないし、いやでも発散させたいエネルギーってすごい重要ななにかの原動力だって気がしてる。「犬がほめられるのはなにもしなかったときだけさ」ってスヌーピーの台詞が頭をよぎる。おとなしすぎるのだって問題なのだ。

コーマック・マッカーシー『平原の町』

マッカーシー祭りラスト。国境三部作の完結編。『すべての美しい馬』と『越境』の主人公が登場する。

既訳のマッカーシー作品の中ではいちばんストレートな展開。しかもラブストーリー。『越境』の後だと戸惑うくらい違和感が。ビリー(『越境』の主人公)って話すとこんなキャラだったんだね、という。悲劇に向けて加速する後半がすばらしい。解説にもあるけど、かなりのキャラ萌え小説である。

エピローグでは年老いたビリーがとある男と問答するんだけど、これが作家論みたいになっててなかなか楽しい。

これで既訳のマッカーシーは全部読んだ、はず。句読点も少なく引用符もない独特の文体が目を引くけど、ストーリーのネタそのものは書かれた時点からでも古くさい感じのものが多いように思う。世界がおそらく核戦争で滅んでる2006年の『ザ・ロード』なんかはまさにそう。にもかかわらず、はっとするような衝撃がある。やっぱり作家の必然で書かれているってことなんだろう。当然のように期待した展開にはならないし、結末もすっきりしない。読む人をかなり選ぶ。だけど、芸術ってそういうもんなんじゃないかな。そして、その意味でマッカーシーは間違いなくすごい。

コーマック・マッカーシー『越境』

冬のマッカーシー祭り。『すべての美しい馬』からはじまる国境三部作の二作目。Amazonから届いた時、分厚さにびっくりした。650ページくらいある。

『すべての美しい馬』と舞台は同じアメリカとメキシコの国境、正確にはニューメキシコ州とチワワ州の境。時代はちょっと遡って第二次大戦がもうすぐはじまる頃。第二作とはいえ、登場人物はがらっと入れ替わって『すべての美しい馬』のキャラクターは登場しない、別個の話。主人公のビリーが捕まえた牝狼を故郷のメキシコへ連れていこうと国境を超えるところからはじまり、様々な事件に巻き込まれていく。

これは喪失の物語だ。メキシコに足を踏み入れるたび、ビリーは大切なものを失っていく。神話で異世界に迷い込んだ旅人みたい。異世界であるところのメキシコは風景も人も幻想的に描かれ、だれもが哲学的含蓄のある話を唐突に長々とビリーに語って聞かせる。

ビリーは最後までいろんなことを元あるべきところに収めようと奮闘するのだけど、それは思う形では実を結ばない。喪失って書いたけど、取り残されるっていう方が正しいかもしれない。

いつものことだが、エンターテイメント的オチを期待して読むとだめ。そもそも『越境』自体がそういう結末を許されない少年の物語になってる。『血と暴力の国』の語り部、ベル保安官が結局、殺し屋シュガーと対決できないように。それゆえに生き残ってしまうのだけど、何かが決定的に変わってしまい、元には絶対戻らない。