a life in orbit

a life in orbit は『週刊ちまみれ』で連載してた小説です。

text version 1.1: written by dkex. 2006-11-26.

目次


1. やりなおしは失敗

彼女は、漂っていた。

なにも見えなかった。網膜の血流がつくる火花が散るばかり。暗いんだな、と思った。体の感覚はなかった。ただ漠然と、これは夢なのかな、それとも現実?と考えた。

火花はきれいだった。パチパチパチパチパチン。はじける音を想像する。ランダムにしかみえなかったパターンがだんだん特定のリズムパターンに収束してくる。心臓と同期してるんだ、なるほどね。リニアビート。鼓動の低音にあわせて火花のパーカッションが細かいリズムを刻んでいる。楽しいね、自分のからだってこんなだったんだ。

視覚が唐突に反転した。リズムは消え失せ、一面のホワイトノイズ。耳が痛い、まぶしい、なんだこれ。

「ユードラ」

理由はよくわからないけれど、現実のものとはっきりわかる声で彼女は自分の名前を聞いた。全身の神経に電流がはしる。ユードラは覚醒した。

ユードラは再生槽の生暖かくて滑らかでオレンジ色の透きとおった液体のなかで横たわっていた。ゆっくり体を起こす。短い髪から液体がこぼれおちた。息ができない。大きく吸いこもうとすると、再生槽の液体と同じオレンジ色が溢れてきた。こぽこぽこぽ。それが肺からすっかり排出されてしまうと、やっとユードラは思いっきり息を吸いこむことができた。少しピリピリする空気。

「様子はどうだ…」

「バイタルは安定してるし…」

「成功か…」

顔を上げると、まぶしい真っ白な部屋で同じくらい白い固そうな大きな服で全身を覆った人間がのぞきこんでいた。その顔は真っ黒のお盆だった。光沢が全くない。よちよち歩くようすは…赤ちゃんみたいだ、とユードラは思った。

他人の存在を確認したことでユードラは自分に体があるのを思い出した。慌てて確かめる。何も着てない。なんか恥ずかしい、と思って何気なく手で胸を隠そうとした…が、あげた左手は手首から崩れるようにもげて、オレンジの液体の中に落ちていった。

「あ」

なにかが喉にせりあがってきた。熱くて鉄の味がするねっとりしたなにか。

ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ

苦痛はなかったが、何か自分によくない事が起きてるのはわかった。

ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ

体が溶けてるんだ。溶けた中身がこうやってあふれてきて…顔がお盆の白い赤ちゃん達が慌ててる。なんだかおかしくて笑いだしそうになったとき、視界が欠けた。自分の右目が落ちたんだ、と気づいた瞬間、ユードラの世界は暗転した。

2. なくしたもの

ユードラは半欠けの木星を窓にはりついて眺めていた。大赤斑が渦を巻いてる。リンゼイさんが言ってたっけ、こんな軌道に住めるようになったなんて凄いでしょう、って。詳しいことはよくわからなかったけど、それはそれは大変なことらしい。放射線がどうとかこうとか。わたし達がいる木星軌道教会の第一リングプロフェットは木星の軌道上にあります。教会の一番最初のリングで最も大きいここが首都機能を果たしていて人口も多いのですが、他に大規模なリングはオデッセイとフェアライトのふたつ、より小規模なものはかなりの数になります。それから資源採集用のリグもたくさん。

「ユードラ」

聞き覚えのある声に振り返る。

「リンゼイさん」

リンゼイは木星軌道教会の大神官だ。そんな偉い人がなんでわたしの身の回りの世話をしてるの?って聞いたら、わたしが教皇様にお願いしたんです、気を遣わなくていいですよ、と優しく答えてくれたことを、ユードラは思い出した。

教会で一番偉いのは教皇様だ。誰も名前で呼ばなくて単に教皇様とだけ呼ぶので、本名は知らない。ユードラはまだ実際に会ったことはなかった。百年以上生きる人はいまどき珍しくないんだけど、教皇様は何百年っていうレベルで長生きしてるらしい。木星軌道にリングを創設したのは教皇様本人だそうだ。教皇様だけじゃいろいろ手がまわらないので、神官と呼ばれる人たちが教皇様の直轄で働いている。リンゼイさんはそこでも一番偉い部類の大神官だ。大神官は女の人ばっかりなんだって。

「ここの生活は気に入った?」

「うん、とっても!」

そう、と落ち着いた優しいいつもの口調で言いながらリンゼイが飲み物のボトルをテーブルに固定する。ここはリングの中でも数少ない窓がある場所だ。リンゼイは足を組んだ姿勢で浮いている。空調のせいで微妙に姿勢が変わってしまうユードラと違って、リンゼイは安定そのもの。神官用の黒い滑らかなスーツとふんわりしたローブ、そしていつもの珊瑚のペンダント。きれいに切りそろえられたボブの黒髪がゆっくりたなびいている。すてきだな、とユードラはいつも思う。背丈はおなじくらいなのに、パーツがぜんぜん違うっていうか。自分のくせ毛なグレーの髪は地味だしあんまりかわいくない。この新しいアクセサリはちょっと気にいってるけど、と頭から伸びる二本の触角状のものをくるくるさせる。リンゼイさんは気にしてたけど、新しい右目も気にいってるんだ、だって全部がきれいなコバルトブルーなんだよ。

「それで…ユードラ」

リンゼイが改まって言う。

「やっぱりなにも思い出さないのですか?」

「うん…再生事故の事も聞いたけど…」

わたしはなにも覚えてない。昔の自分の事はなにも。気がついたらリンゼイさんが寝台の横に付き添ってくれてて…

「…夢は見るんだけど…」

昔の記憶らしきものといえばこれだけ。

「体が溶けてく夢。水みたいになっちゃうんだけど…痛いとか、苦しいとかはなくて」

リンゼイさんはあんまり表情が変わらない。でも、今はなんだか悲しそうだな、とユードラは思った。

3. 問題の三人

「で、あれが後継者だって話なんだけどさ…」

ジャンプスーツの青年が言う。

「カワイイ娘じゃないの」

銀髪の女が言う。

「再生に失敗した、と聞くが」

トーガをまとったスキンヘッドが言う。

リンゼイのやつ、とっくの昔にこっちに気づいてるくせに無関心なフリなんかして。全部お見通しなんだから。女は思った。クソ真面目でかわいくないんだもの。ロドニーはアホだからいいけど、ルイは結構根に持つわよ、そういうの。同業者としてライバル心燃やしてるんだから。

「記憶がない、とも聞く。実際はどうなのだろうな」

「そいつは本人に確かめてみるよ。それが手っとり早い」

「てかさ、そのジャンプスーツはいい加減どうかと思うんだけどー。ダサイよ?」

「うるさい!ミラの知ったこっちゃないだろっ」

銀髪の女は真剣な表情だった。

「デートに誘うんだったらさ、それはないと思うんだよね、ロドニー…」

4. 地球のもの

ユードラは黙々と食べていた。魚のフライってこんな味だっけ?と、昔の記憶をたどろうとして…やめた。思い出そうとするとなにもかもがぼやけちゃう。ま、おいしいからいっか。それに、わたしにこんなに親しく話しかけてきたリングの人ははじめてだ。リンゼイさんといるとき、まわりの空気が緊張してるのには気づいてた。最近一人のときも増えたんだけど、そうなるとみんなあんまり他人に興味がないかんじ。食事に誘われて、どうしたもんかとリンゼイさんに相談したら、あなたはここの市民なんだから好きにしたらいいんですよ、って。ロドニーはちょっと変わってるしよくしゃべるけど嫌な感じはしないし…でも、こんな豪勢なレストランにつれてこられるとは。

「ここは重力があるんだね」

なんてどうでもいい話題を振ってしまう。慣れないドレスが悪いんだ。タイトすぎるよ。

「そうでないとこういう伝統的なスタイルで食事なんかできないのさ。食べにくいんだよ」

そういう真面目な答えが返ってくるとは思わなかったんだけど、とユードラは思った。それはそうと、この人なんでジャンプスーツなんだろう?自分だけ場違いじゃないのはそれなりに安心できたりするんだけど、必要以上のギャップにはますます戸惑ってしまう。

「あの…これ本物の魚だよね?」

だからこんなつまらない話を振ってしまうんだ。しかし、またしてもロドニーは真面目に答えてくる。

「そうだよ。外周で養殖してるんだ。地球と環境が似せてあって…」

「地球…?」

リンゼイさんが言ってた。わたしは地球で生まれて育ったんだって。でも、やっぱりなにも思い出せない。自分のことはいろいろ気にならなかったわけじゃないんだけど、そこだけ幕がかかってるみたいに出てこない。だれかが邪魔してる…とか、まさかね。

「あれ、ユードラ、どうかした?」

「ん?あっ、ちょっとぼーっとしただけ、なんでもない」

ユードラはそう言って顔をあげようとした。思っていた速度で体が動かなかった。今度はなに?テーブルの中央に赤い光の点が見える。光の点から真上にまっすぐ赤い光の筋が伸びている。

スローモーション。直感が危険を告げている。逃げなきゃ。なにか自分の意思ではない力で体が動いた。っと、ロドニー。とっさにジャンプスーツの襟をつかんで床を蹴る。

閃光とともにテーブルが砕けた。破片が飛散し、ウェイターの髭がだいなしになる。慌てた客でレストランは大パニックになった。消防システムが作動して、なんとか事態を収拾しようと奮闘している。

「げほげほ」

思いっきり襟を引っぱられて息の詰まったロドニーだったが、慌てて立ち上がる。

「ユードラっ、だいじょ…」

ユードラは床に座りこんで、テーブルのあった空間の、さらにどこか遠くを見つめていた。

「…地球…か…」

ユードラの右目が青い光を放っている。それはだんだん微かになって、消えた。なるほどね、とロドニーは思った。リンゼイたちもいろいろ考えてるわけだ。スプリンクラーの放水がユードラの髪を打つ。いったいこの子にどんな運命が待ってるんだろう。この子が受け入れられるならそれでいいんだけどな。ま、とにかく今は外に出ないとね。

「行こう、ユードラ」

「あ…うん。」

5. 謁見室

リンゼイは真っ白の通路を進んでいく。真っ白なドアをいくつか抜けると、その先はまた真っ白な部屋。天井からは真っ白で巨大なシリンダーが三本ぶらさがっている。

リンゼイは跪いて静かにしゃべりだす。

「あの子が狙われました。予想以上に事態の進展は早いようです」

低いハム。リンゼイは続ける。

「はい…そうですね。なるようになってゆくのでしょう、御心のままに」

6. シンセサイザー

あんな事件のあとでもリンゼイはいつもどおりだった。ただ、怪我はありませんでしたか?とだけ。ユードラが出歩くのも止めなかったし、ロドニーに会うのも止めなかった。ま、ロドニーは最近会いにこない。ひとりは平気だけどちょっと寂しいね、とユードラは思った。

そういえば。今日はリンゼイさんが不思議な機械を置いていったんだった。これどうするの?って聞いたら、使い方ならあなたはもう知ってるからって。とりあえず持ってみる。ハンディのネットワーク端末くらいの大きさで、見た目もそっくりだ。目立つ違いは透明のチューブが二本取り付けられてる事。ホントにわたし、これのこと知って…

見つめるユードラの瞳孔があやふやになる。頭に生えている触角が伸びて、先端がチューブにちょいちょい触れる。触角の先端が明滅を始め、チューブの中に灯がともる、ように見えた。キレイだ、とユードラは思った。テンションの多い電子音のアルペジオ。 Dm9、かな?

部屋の隅に掛けられた水のボトルが変化しだす。ユードラは気づかない。ストローから水があふれてきて、何かのかたちになってくる。水の魚。透き通った体をくねらせるたび、不透明度が増していく。ぴち、ぴち、ぴち。

7. 感知するもの

「ム」

巨大なヘッドフォンをつけたスキンヘッドのルイが、いつもは瞳があるのか判別できない細い目を見開く。この顔、すっごいレアなのよね、とミラは思う。

「何か始まったわね?ルイ…」

「シンセサイザーを起動させてる。しかも想像以上の力だ。三割近く器官を交換してるのに」

「それが才能なのよ」

ミラはつぶやく。

「おもしろいでしょ。血はわたしたちの起源からやってきたんだから」

8. 本日はそのへんにしときましょう

魚は水球に包まれて口をぱくぱくさせている。目がくるくるしだして…

「調子はどうですか。ユードラ」

あ。唐突に集中がとぎれた。ん?今ばしゃって…振り返るとバラバラになりかけた魚が痙攣してる。目をあげるといつもの顔のリンゼイさんがいた。

9. 図書館

今日は図書館で教会の歴史のお勉強。ここのデータベースは古典的なスタイルで本がたくさん置いてある。オンラインのデジタルデータのほかに、わざわざこういうものも作ってるんですよ、とリンゼイが言った。教皇様は教会が創立されてしばらくのち、ふと思いたって教会の歴史や思想をしたためた本を作りはじめられたそうです。まだ教会の本部が地球にあったころですね。革の表紙、羊皮紙のページ。それが今でも続いてるんです。最近のものは作りが似てるだけで、素材は全く別のものなんですけどね。

そうそう、歴史のお話でした、とリンゼイは映像資料をロードしながら語りはじめた。

教会の歴史は地球に始まります。当時、人類の宇宙開発は停滞していました。火星のテラフォーミングが思ったような成果をあげず、太陽系のアステロイドベルトより外周への人類の進出はなかなか実現しませんでした。挫折感が宇宙進出計画を支配し、予算は減り、地球への回帰的傾向が強まりました。しょせん、人類は地球でしか生きられない、というわけです。宇宙開発局の要職に就いていた教会の創始者タチアナ・ミール卿、今の教皇様のお母様にあたる方は、この事態を憂慮していました。そして、人類は宇宙に適合するべく変化しなければならないという信念のもと、大規模な人類改造計画を打ち出したのです。ミール卿は従来から、人類はその原型である神に近づいてゆき、最後には同一の存在になる、という理論を展開されていましたから、これは自然な発想でした。しかし当時は、テラフォーミングも含めて、人類に適した環境を宇宙に創造することによって居住空間を確保しようとしていましたから、かなりの異端だったわけです。

この計画は大きな議論を巻き起こしました。遺伝子操作や人口器官は当時でもかなり発達していたのですが、倫理的な観点からその大規模な使用は制限されていました。宇宙開発局は推進派と反対派で完全に二分しました。そのためミール卿は、協力的ないくつかの大きな資本を得て、独立した機関を設立しました。宇宙人類教会——当時はそう呼ばれていました——のはじまりです。教会はまず、地球軌道にステーションを設営しました。そして、一番重要な計画に着手しました。ミール卿は自分の遺伝子をもとに、自分の名前を継承した第一世代の、ミール卿いわく『プロトタイプ』の方々を創造しました。この偉大な、真に最初の宇宙世代と呼べる方々には、ミール卿のプランに従って様々なデザインが施されていました。無重力に適応した内分泌系や代謝、放射線への抵抗力、低酸素濃度での活動、三次元的な方向感覚、などなど。最初の計画で十二人の姉妹が生まれました。そのうち末娘にあたるのが今の教皇様、アナスタシア・ミール卿です。

進出計画は様々な批判にさらされましたが、作業は実に順調でした。宇宙での活動能力が優れているのですから当然のことでした。成功を受けてプロトタイプの方々の遺伝プールから第二、第三の世代の宇宙人類が作られました。タチアナ卿は二十世紀のフィクションから引用して、自分の子孫たちをスターチャイルドと名付けられました。その系譜はわたしたち神官に受け継がれているのですよ。スターチャイルドの方々は、従来ならロボットでしか活動できなかったような領域にも進出していきました。年月が過ぎ、創始者のタチアナ卿は亡くなりましたが、教会はアステロイドベルトを超え、ついに木星に最初のリングを建設しました。そして、アナスタシア卿がそこを治めることになったのです。

しかし、地球圏や火星ではスターチャイルドたちに対する不安が広がっていました。異質な存在が恐れられたのです。最初の衝突は火星でした。急激に拡大するスターチャイルドの勢力を恐れて、その他のコロニーが連合軍を結成し、スターチャイルドのコロニーを包囲したのです。教会の火星代表であったナタリア卿は、不要な対立を避けるために教会の火星コロニーを撤収することに同意しました。しかし、その後も各所で小規模な衝突が起き、情勢は不安定でした。地球や火星の政府との交渉の結果、教会は火星圏と地球圏から全面的に撤退するかわり、木星圏を独占的に所有できることとなりました。これが教会の歴史の転換点になりました。

スターチャイルドと人類の棲み分けが決定し、状況が安定するかに思えたとき、悲劇は起こりました。木星リングへの本部移転の準備のため、今の教皇様、アナスタシア卿以外のプロトタイプと、大半のスターチャルドの方々は地球軌道のステーションに滞在していました。そこが何者かによって爆破されたのです。生存者はいませんでした。教皇様のお姉様たちも、数千人いた住民も、みんな亡くなりました。

教皇様はすぐに犯人に対する非難声明を出し、自衛のため木星の独立宣言に踏み切りました。こうして木星軌道リング連合が発足したのです。以後、紆余曲折はありましたが、結局、木星圏でまともな活動が行えるのは教会だけということで、独立国家として認められて今に至るわけです。

リンゼイは映像をオフにした。そして、ライブラリからいちばん古い本をとりだした。

今は教皇様は滅多に外にお出にならないんですが…わたしが教会の仕事をはじめた頃にはちょくちょくここにこられて、なんとするでもなくページを繰っていらっしゃいました。それは内容を読む、というより紙の感触を確かめている、といった風でした。わたしはね、こうしてるのが好きなんですよ、とおっしゃっていたことを思い出します。わたしは古い人間だから。あなたはどう?と質問されました、といってリンゼイは言葉を切った。しばらくの沈黙のあと、リンゼイはひとり言のようにまた語り始めた。教皇様が好きなものはわたしも好きです、と答えたんです。そしたら教皇様は困ったように笑って、あなたは本当に真面目ですね、っておっしゃられたんですよ。リンゼイはパタリと本を閉じた。今日はこの辺にしましょうか…お茶でも飲みましょう。最後に表紙の感触を指でなぞってからリンゼイは立ちあがった。教皇様の話をしてるときのリンゼイさんはなんだかすごくうれしそうだ、とユードラは思った。

10. 瞬間の瞬間

ユードラはリンゼイと並んで歩いていた。重力がある区画なので、とことこ歩く。ユードラはまだ体力が万全ではないので、あまり速く歩けない。すぐに息があがってしまう。リンゼイは歩みを緩めている様子はないのだが、いつもユードラの歩調にぴったりあっている。どうやったらそんな歩き方ができるのか、ユードラはいつも不思議だった。

無重力区画との境界にさしかかったときだった。

瞬間。ユードラの視界はスローモーションになった。レストランのときと同じだ、とユードラは思った。三本の白い矢が音もなく顔をかすめていったのは覚えている。それがリンゼイさんを串刺しにして…振り向いたら白い仮面とボウガンがこちらを見すえていた。

次の瞬間の記憶はない。ユードラが我にかえると、白い仮面をリンゼイが見おろしていた。白い仮面の人物はバラバラに引き裂かれ、組織を通路一面にまき散らしてる。白いキャンバスに赤とピンクの絵の具をぶちまけた、二十世紀の抽象絵画。悪寒がするほどキレイ。白い鎧の中はただの人間だったんだ。そういえばリンゼイさん、怪我してないんだろうか。たしかに背中に三本突き刺さったのをはっきり見たのに、ローブが傷んでるくらいでなんともなさそうなんだけど。リンゼイの黒い滑らかな指先からは赤黒いものが滴っている。あれは血、だよね?と、ユードラは自分の服や顔も同じもので汚れているのに気がついた。こみ上がってくる生臭い鉄の匂い。溶けていく体。足下に転がっているあの丸いのは…わたしの右目?

ユードラの触角が反応する。アルペジオが聞こえる。潰れかけた眼球が脈打つ。アルペジオがシンコペーションをはじめる。中からなにかが孵ろうとしていた。それは表面を破ると体を起こした。粘土細工の小人。それが産声をあげようとして…黒いヒールに踏みつぶされた。

「!」

ユードラが我に返る。

「行きますよ、ユードラ」

いつもと同じようにリンゼイが言った。

11. 争奪戦

彼らは今さらやってきた。いや、むしろ、とリンゼイは管制室に向かいながら思った。このタイミングは彼らにとっては迅速なのだ。こちらの尺度でだけ判断してはいけない。

管制室に入る。スクリーンは既に二隻の艦影をとらえていた。地球連合の戦艦。そのわりには無防備ですね、とリンゼイは思った。たしかに装備ではこちらに圧倒的な分があるのだけど…

「リンゼイ殿、外交通信です。スクリーンにだしますか?」

「お願いします」

外交官が大写しになる。骨張った頬と、繊細な巻き毛の金髪。大げさなビクトリア風の上着。傲慢な視線。あいかわらず悪趣味ですね、あなたは。

「わたしは地球連合軍司令官アレックス・イーノ大佐である。地球連合の代表として誘拐された要人の身柄の返還を要求する。速やかにユードラ・アシュレイを引き渡されたい」

外交儀礼は省略ですか、そうとう余裕がないですね。

「木星軌道教会のリンゼイ大神官です。そちらの識別タグは確認しました。ユードラ・アシュレイは教会リングへの正規の恒久的な移民として市民データベースに登録されています。地球連合から発行された証明書も存在します。要求の意図を理解しかねますが」

「ユードラ・アシュレイの木星移住に関して問題は何もない、と」

「そうです」

イーノの顔色が変わる。モニタ越しでも威圧感が伝わってくる。まったく、いやになるくらいあいかわらずですね。しかし、この男がやってきたということは…

「我々は馬鹿ではない!移民登録において不正が行われた明白な証拠をつかんでいるのだぞ」

「地球の裁判で却下された“証拠”なのではないのですか?」

「交渉は決裂ですな、大神官殿。息子も失望していることでしょう」

言い終わるか終わらないかのタイミングで高出力のレーザーが放たれた。外周部の観測室が赤熱して爆散する。振動はリング全体に共鳴し、管制室にも伝わってきた。

「最初からやる気でしたね。電磁パルス照射。急いで」

「しかし…」

「手遅れになります!速く!」

見えない波が戦艦を貫いた。姿勢制御が崩れて、船体が漂いはじめる。電子部品は停止した。生命維持に必要な機器も、全て。アレックスははもちろん別のところにいるのだろうけど、無人で動かせる船じゃない。なにかに似てる、とリンゼイは制御を失った戦艦をみて思った。丸い水槽のなかのエンゼルフィッシュ。アープって名前だった。元気に泳いでたのに、次の瞬間、支えていたなにかが切れたように水の中を漂っていた。そうか。あの戦艦はアープに似てるんだ…

「敵艦、沈黙しました」

その声で乾燥した現実にもどる。なんでわたしったら。わたしったらこんな時に昔のことばかり思い出してしまうんでしょうね?

12. 散歩

爆発の衝撃は甲高い共鳴になって、ユードラの部屋にもやってきた。よくないことが起こってる。でも。彼女は少しウキウキしていた。誰かがおいでって呼んでる気がするんだ。被弾した地点からかな?あそこはヤなことになってるはずだ。それはわかる。でも、行ってみなきゃ。なにか大事なことが待ってるはずなんだ。

気密服を着込んで外へでる。大事件があったときはこれを着てなさいって、リンゼイさんが用意してくれてたものだ。これはわたしが昔、使ってたものなんですよ、とリンゼイさんは言ってた。最新のものの方がいろいろ都合はいいみたいなんですけど、わたしは試してないし、それに。こっちの方があなたによく似合います。そう言って。そうだ、リンゼイさん、そのときは笑ってたな。

災害時用プローブがシャフトをせわしなく行き交ってる。動きも構造もライブラリで見た節足動物にそっくり。リングにはその手の本物は食用かペット向けしかいないけど、地球には人間の何倍もいるらしい。それはそれでちょっとやだな、と自分が囲まれてるところを想像して、ユードラは思った。

被弾地点の周辺は骨の洞窟だった。空気の流出は止まっていたが、ユードラの気密服は呼吸不可能の判定を下している。壁の大半はフレームだけ残してなくなっていた。衝撃のせいか、熱のせいか。フレームをよく見ると小さな修復用プローブが口、に当たる部分から素材を吐き出して壁を再生しようとしている。これはビデオで見た地球の蚕とそっくり、とユードラは思った。

不意にヘルメットになにかがあたる。一瞬、赤い染みがバイザーに広がって、すぐに剥がれていく。あたったものはちぎれた人間の腕だった。そうか、みんな無事だったわけじゃないんだ。手にとって眺めてみる。黄色と紫と黒と赤とピンクのコントラストがどうにもきもち悪い。でも、これは大切なものだったんだ。

そうやってしばらく見つめてから顔をあげると、緑の虹彩と目があった。あわてて手に持ったものでそれを…

「それを渡してあげて」

だれかの声でひっぱたくのをやめた。死体を回収してたのね。ごめんなさい。プローブは腕を受け取ると大切そうに抱えて去っていった。

「ありがとう」

声のほうに振り返る。目にはいったのは黒いローブ。陰影がまったくないくらい真っ黒で、おかしいくらい滑らかで、おかしいくらい光沢のある黒。黒。でも、嫌な感じはしなくて…

「おばさん…誰?」

真っ黒ローブはフードをとった。青いくらい真っ白な肌とユードラと同じグレーの髪。そして、ピンク色の瞳。声の感じだけでおばさんと呼んでしまったものの、その顔はまったくもって年齢不詳だった。ありとあらゆる年齢層がみてとれる気がする。あっけにとられる。えとあのその。

「わたしはアナスタシア・ミール。皆は教皇様と呼びますね」

素顔で女性はそう言った。きもち悪いほど透きとおる声だった。

13. 予想内の予定外

数回フラッシュを浴びせたあと、照明が沈黙した。室内は非常灯に赤く照らされる。やっぱりすんなりいかなかった。つまらないことを考えてたからだ、とリンゼイは後悔した。集中しなければ。

「状況は?」

「パワーグリッドダウン。原因不明。予備グリッドに切り替わりました。防衛システムがダウンしてます。再起動までの時間不明」

センサーが別の艦影を補足した。スマートではないが、確実な方法、か。そうなるとこちらにも少し猶予がある。

「白兵戦準備。あとを頼みます、グリッド復旧を急いで」

14. 作戦会議

「別の艦影を確認しました。連中、直接乗りこんでくるつもりでしょうね」

作戦室に入ってくるなりリンゼイは単刀直入に切り出した。二人の同僚、サヤカとドロレスも同じ意見。

「僧兵の配置はバッチリ。まー、勝ち負けまではなんとも言えないけど」

サヤカは既に配置を決定していて、自分の装備をあれこれ物色しだしていた。

「予想戦闘区域周辺の市民の退避は順調。エアロックの補強も終わってるから、最悪二区画くらい放棄しても問題はないわね」

ドロレスはタブレット端末を見ながら難しい顔をしている。

「…それで。ユードラは?」

「それが問題なのよねー…なんでか被害区域に反応があるのよ」

横目でリンゼイを探る。リンゼイの顔色が変わった。長い付き合いのドロレスだからわかる些細な変化ではあったのだが。動揺したわね、驚いた。ドロレスは神官でいる時の彼女が、他人にわかるほど不安を表すのを見るのは初めてだった。しかしそれは、瞬きした瞬間キレイさっぱり消え失せて…

「そろそろ接触する頃ですね。全体の指揮はわたしが執ります。前線は任せました」

サヤカとドロレスは同意した。

15. 侵入するもの

滑らかな銀色の船体は、先行した二隻とは異質だった。扁形動物のようなそれは空間を滑ってリングに引き寄せられていた。気絶したリングの周囲を嗅ぎ回る。破損した区域を発見すると、ぬらりと頭を潜り込ませる。表面から多数の腕が伸びて、船体をリングの外周に固定した。

16. 黒い肌

通路の天井を破って銀色の腕があらわれる。腕の先が開いて、昆虫の外骨格のような白い鎧を着た海兵隊を吐き出しはじめる。

「B小隊潜入完了。次の作戦行動に移行する」

ヘルメットの単眼が赤い光を放つ。ライフルを構えて前進する。高度な訓練が未知の領域をいく恐怖心を高揚感に変える。エリートの感覚。ここは敵の懐深く。しかしなんの問題もない。

通路を塞ぐエアロック。それがゆっくり開いて開戦を告げる。彼らを出迎えたのは巨大な蟹だった。伸縮する鋏が音速で振るわれ、兵士の首が飛ぶ。ライフルの閃光。徹甲弾が甲羅を粉砕するまでの数十秒で小隊の大半が切り刻まれた。

黒い疾風が駆け抜ける。小隊の生き残りの一人をサヤカの両手の曲刀が四分割にする。二人目が反応するより速くさらに曲刀が振るわれるが、刀はその体を切り離す前に折れた。なんてこと!ぶった斬り損ねるなんて。サヤカは兵士の体を既にこちらに銃口を向けつつある小隊最後の一人めがけて蹴りとばす。アサルトライフルの掃射が致命傷を負った兵士の命を完全に粉砕する。撃つのに躊躇なんかしないか、さすが、とサヤカは思った。白とピンクと赤の競演。サヤカは左腕の黒いグローブ——実際はほとんど皮膚と言っていい——の固定を解く。表面が流れるように変形して、薄い丸盾に変化する。ライフルは盾を粉砕する威力を持ってはいたが、サヤカのスピードはそれを上回った。残った刀が最後の兵士の首を胴体から切り離す。

腕を振るって焼けたスキンの盾を捨てる。ああもう、グリッドからパワーの供給がないからあんま僧兵がもたないよ、とサヤカは真っ赤な血液の球が空調に吸い込まれていくのを見ながら思った。あいつら、なんか妙に強力な装備だし。それでもこっちが重装甲だったらもっと簡単なのに。熱で焼ける左腕のスキンが自己修復していくのを眺める。遅い、こりゃマズイ。ゴーグルに他の区域の経過が流れている。結構逃しちゃってる。よくないネ。むこうが残存兵力を再編成する前に叩いとかないと。盾を作ったやりかたで、黒い肌からあたらしい曲刀をつくる。あいつら、ボディアーマーになんか小細工があるみたいだから厄介だ。サヤカはまた飛びだしていく。

17. 教皇様のお考え

「ここも戦場になるかもしれません。急いで移動しましょう」

教皇様について通路をいく。破損した通路はいつもと違う風景だ。いつもは真っ白の光の世界。今は白い骨の世界。白にも結構色んな個性があるんだね、とユードラは思った。

「この光景は忘れないで、ユードラ。わたしたちは決して強固な基盤の上で生きているわけではないのです。リングはテラフォーミングされた惑星の環境よりも遥かに脆い」

そう言われて、ちょっとキレイだな、なんて思っていた自分が恥ずかしくなってしまった。教皇様は察していたのか、ほほえみかけてきた。

「あなたにはすべて知ってもらわないといけません」

厳重に封鎖されたロックが解除されて、重そうなハッチが開く。その先は開けたロビーだった。継ぎめのない広いガラス窓越しに複数の船体が見える。

「あれれ、ドックじゃない。どゆこと?」

リングの生活で小型宇宙船は不可欠だ。しかし、保安上の理由から公の港は二つに限定されていて、あらゆる船舶はそのどちらかを利用することになっている。他には軍用のドックだが、それにしては狭いし…となると高位聖職者用のドック。これがそうなんだ。

「やあ、ユードラ!もうヘルメットは取っても平気だよ」

「え?え?ロドニー?なんで…」

唐突にロドニーが現れた。

「よりにもよって過激分子に手伝わせるとは…」

「えええ?!」

またしても聞き慣れた声。

「教皇様はいつもそうです。何でも一人でお決めになる。わたしたち神官の気苦労なんかもたまにはねぎらっていただきたいものです。たま〜には」

リンゼイは明らかに機嫌が悪かった。戦闘用の棍を肘掛け代わりにして足をぶらぶらさせている。リンゼイさん、むすっとしてると普通の女の子みたいなんだ、とユードラは思った。

教皇様は満面の笑み。

「なんならリーリェを使ってもかまいませんよ。五番ゲートです。マウリシオによろしくね」

「さっすが話がわかる。行こう、ユードラ」

「えっ?ちょっとこれどういう…」

リンゼイがそっぽをむいて言う。

「急いで、ユードラ。今は説明してる時間がありません。後でそこのバカタレが説明してくれるでしょう」

ロドニーが、さぁさぁと急かす。

「ちょっと待って。これを持っていきなさい」

教皇様がユードラに手渡したのは、鞘に納まった細身の古風な剣だった。

18. 真実への旅立

リーリェは最新型の高速艇だ。コクピットは広々した空間だった。シンプルなパネルと全天スクリーン。ロドニーは嬉しそうに操縦席に体を固定させる。

「さすが教皇様、気前がいい」

「リンゼイさん、卒倒してないかな」

「大丈夫、殺したって死なないよ」

細い紡錘形の船体の後部が花弁のように展開する。それが植物の百合と似ていることからリーリェと名付けられたのだった。エンジンに火が入る。ドックのハッチが開くと船体を固定していたアームが外され、カタパルトに付け替えられる。カウントダウンが終わると船体は宇宙空間に射出された。

「ちょっと一仕事してかなきゃいけないんだった」

飛びだしたリーリェがリングに進路を戻す。船体の先端部が割れて、巨大な火器があらわれる。高速で光の弾が放たれて、リングに寄生した揚陸艦の八割を消し飛ばした。爆発もなにもなかった。弾の当たった部分から船体が崩壊し、闇に返っていっただけだった。悪趣味だ、こんな武器もあの攻撃してきた船も。ユードラは思った。

19. 見送り

「行ってしまいました。もうどうなっても知りませんよ」

「彼より優秀なパイロットはいません。大丈夫ですよ」

「シミュクラまで出しておいでになってるとは驚きました」

手すりに体重を預けてリンゼイが言う。

「…ほんとうにこれで良かったんですか?」

「不安ですか?」

「…」

「やれやれ。つくづく生真面目ですね、あなたは。もうちょっと楽に考えましょ」

「わかってます…でも…」

リンゼイは顔を伏せてしまった。

「…教皇様はどうされるんですか?」

「わたしの時代はもう終わりなのですよ。肉体の限界は近づいています。この時のためにユードラを連れてきたのですから」

「…はい…わかってます…でも…」

リンゼイはやっとのことで言葉をつないだ。

「…わかってます…でも…」

教皇様は黙ってリンゼイの肩を抱いていた。とてもとても、やさしかった。

20. そして、唐突に終わる

謁見室は作戦室を兼ねている。神官専用の内線が鳴った。二十世紀初頭の大戦で使われた通信機を模したデザインだ。

「で、どう?」

「あー、リンゼイ?パワーグリッドは復旧したよ。いきなりね。そのおかげもあって敵の強襲部隊は殲滅。ちょーっとてこずったけど。聞いてたより強力な装備だった。こっちのこともよーく研究されてるわ。重火器まで持ち出して本気だね。ま、つっても貴重な惑星間航行船を三隻失ったんだ。当分次の手は無いと思いたいね、毎回これじゃたまらんわ」

「被害は?」

「うん、防衛ラインは突破させなかったから、リングへのダメージは想定内のレベルかな。僧兵の消耗はちょっと大きかったね、再生機能がよく働かなかったから。サヤカが飛び回ってくれたんだけど、スキンの消耗が激しくて今メンテナンスに行ってる。わたしもちょいと深手っぽいけど、動けないほどじゃないから大丈夫」

「そう、良かった…」

「…ところでさ」

ドロレスの声色が変わる。セキュリティ最高レベル。なんとなく小声で再開。

「ユードラは相変わらず行方不明。しかもモニタの反応が消えてる。しかもリーリェがなくなってんのよね…どーいうことなの?」

「…とっても説明しにくいんだけど」

「あははは、やっぱりね。でも、大騒ぎになるよー。議会じゃ、さっそく拉致されて地球に連れてかれたってデマになってるらしいね。あんたもこれから大変だ」

「…そうね」

リンゼイは少しだけ笑った。

21. 餞別

リーリェは巡航に入った。ロドニーは進路の最終調整をしてるらしい。ユードラは満天の星の中で教皇様にもらった剣をいじくりまわしていた。鞘から半身ほど抜いてみる。特に変わったところはないみたいなんだけど…いったいどうするんだろう、これ?

22. 暇を出された人

リンゼイは自室で窓を眺めていた。木星はほぼまん丸。この風景だけが変わらないな、とリンゼイは思った。ペンダントの革紐を捻って暇をつぶす。

リンゼイは議会の要請を受けた査問委員会の決定で、一時的に大神官の権限を保留されることになった。責任追及はあると思ったけど、きのうの今日でこんな話になるとは。なんでも地球大使時代の一件が保安上の懸念材料とかになったらしい。またその話。いっそクビになったほうが簡単だったのに。ドロレスはあんがい軽い処分なのね、まだまだ捨てたもんじゃないわ、なんて笑ってたけど。ま、仕事はわたしたちで片づくからのんびりしてなさい、か。

一人の憂鬱を妨げる来客を告げるチャイム。識別コードで誰かはわかってる。最低。わたしは今、ちょっといろいろ浸ってるんだから。だから出ない。とくにあなた。邪魔しないで。インターホンが勝手に音声を接続する。あーあーなにも聞こえない…

「リディア〜。りーでぃーあー」

最悪だ。

「ファーストネームで呼んでいいなんて、言った覚えはありません!」

「いいじゃない、リンリンよりマシでしょ。ね、入ってもイイ?」

「リンリンって、ちょ…!」

神官用コードでドアを完全封鎖しようとしたが、今の自分にそれができないことに気がついて、リンゼイは絶望した。封印バンテージが恨めしかった。

「や、元気だった?あれ?」

にこやかにミラが手を振ってる。ドアのセキュリティをハックしといてその笑顔。

「なんだ、冴えないかんじね?」

「誰のせいだと思ってるの?」

「そりゃー、教皇様でしょ?」

「…」

いつもこのロクデナシと口論するとこうだ。なんでこうあっさり自爆してしまうんだろう。

「とっとと出て行って。あなたの顔なんか見たくもない」

「相変わらずね〜」

「パワーグリッドに細工してたのはあなたたちでしょう?」

「あなた“たち”?」

ミラの声のトーンが落ちた。

「うん、そうね…そうかも、ね」

ルイはちょーっと調子に乗りすぎたから…金に転んで裏切るようなやつだったなんて、ちょっとがっかり。おかげで予定どおりグリッドが復旧できなくて、きわどかった。ま、過ぎた話だけど。

「今回は不問にします。次は許しません」

「自分だけ悪者になるつもり?」

「神官の強大な力を得る者は…」

「感情を排して重大な責任の遂行に努めるべし、だっけ?アホらし!たいていの議員はアンタら神官が邪魔なんだヨ?教皇様の手前おおっぴらにはしないけど」

ミラは飲みかけのボトルを手にとって口にくわえた。

「その教皇様も最近出番少ないじゃない。ヘリウム資源の利権やらなんやらで、バカどもが騒ぎはじめてるよ。暗殺なんか先月めでたく過去最高!って、ちょっとナニコレ」

ミラは思いっきり顔をしかめている。リンゼイはボトルを奪いかえした。

「だからって、あなたに関係ないことでしょう?」

「それが大アリ…てか、よくそんなもの平気で飲めるわね…」

「ほっといて。で、どういうことなの」

「あたしはね、アンタの護衛になったんだから」

ちょっと待った。こいつは真剣な顔でなにを言ってるんだろう。

「どういうこと?本気?」

「アンタはスキンもなにも封印されてるでしょ?それじゃあ、絶対命が危ないから助けてあげてって」

ミラはワークパンツのポケットを探って、メッセージパネルを取り出した。

「教皇様に頼まれたんだよ、ほら」

サインは本物だった。ああもう、ひどすぎます。教皇様のお願いなんか断れるわけないじゃないですか。

「んでね、あたしたちもエコーに行けってさ。今、すぐ」

「えっ?」

ああもう、ひどすぎます。

23. 籠の中

維持槽の中は暗かった。頭部の肥大がはじまってからずっとここにいる。寿命が残り少ないのは問題だが、死に対して恐怖は感じない。かつては恐怖を感じたこともあったが。それより、自由に行動できないのがもどかしい。あの子たちに手間をかけさせることなんかないのに。もうこの維持槽の外では生存できない肉体。日に日に少しずつ壊れていってるのがわかる。肉体だけじゃない。精神も。最近じゃシミュクラの遠隔操作も一苦労だ。

アレはまだできるだろうか?試してみる。ステラに怒られるでしょうね。アルペジオがはじまる。奇数倍音をたくさん含んだ金属的な音。ひび割れた手のひらの間で反応がはじまる。格子状の光が半透明の薄膜に変化する。それはきらめく羽毛になってカナリヤの形を作る。顔の無いカナリヤ。

リディアの報告では、ユードラの才能は期待以上みたいだ。彼女なら欠けているパーツを埋めることが可能だろう。まあ、問題がないわけではないのだが…

集中が途切れた。カナリヤが泡になって分解する。いけない、この程度で失敗してしまうなんて。溶液を汚染してしまいますね。

「あまり無理をなさってはお体に障ります、教皇様。お気持ちはわかりますが…」

「ええ、ごめんなさい、ステラ」

24. 大脱走

「ポニーの操縦系統、知らなかったわけじゃないでしょう?」

船内に潜入したまでは良かった。ミラのハックツールは感動的な性能で、神官用ドックまでのセキュリティを全て突破してきた。リンゼイがリングのセキュリティシステムの全面的再構築を真剣に考えるほどだ。そのツールを持ってしても神官専用艇ポニーの起動はできなかった。神官のスキンを介した神経接続が必要なのだ。

「うう、すっかり忘れてたわ。操縦は得意なんだけどな」

「どうするつもり?」

「用心深いアンタのことだから、なんか用意してるんでしょ?こんなときのために」

「知りません!」

しまった、とリンゼイは思った。またやってしまった。ミラは勝利の微笑み。

「あいかわらずごまかすのヘタね、ほら」

「…」

リンゼイはしぶしぶ黒いスティックを取り出した。

「エミュレーターだから、百パーセントってわけにはいきません。危険は知ってますね」

「ひゃっほー、さっすが!」

スティックをソケットに差し込むと、無数の黒いワイヤーにほどける。ワイヤーは滑らかに伸びて、ミラの両腕に巻き付いていく。イタタ、この感覚。ひっさしぶりじゃない?ワイヤーが神経に接続してるんだ。船が目を覚ます。エンジンの鼓動とセンサーの信号が腕から流れ込んでくる。船がもう一つの肉体になった感覚。これかなり迫ってるじゃない。アンタ、やっぱりとんでもないよ、リディア。ふふ、神学校であたしの成績をオーバーロールで上回ったのはアンタだけなんだからこうでなくっちゃおもしろくないけどねー。

「いい加減、いい子ちゃんするのやめたら?しんどいでしょ。絶対そういうキャラじゃないもん」

「ほっといて」

船は宇宙の闇に出ていく。

全天のスクリーンが破損したリングの外壁を映す。リンゼイは心が痛む。ポニーのモニターはとりわけ解像度が高いので、損害状況が鮮明にわかる。見たくない。見えなければいいのに。いつでもそう思う。次の台詞は…これが現実直視しなさいリディア。内なる声。あなたの力はなんのためなのですか責任を果たしなさいその力があなたに与えられているはずです。そして、いつも状況を打開するべく奔走した。彼が死んだときもそう。涙なんか流れなかったっけ。自分でも驚くほどのリアリスト。意志の強さ、というか頑固さにはわれながらあきれた。失点を取り戻したいと思わなかったわけじゃないけど。それだけじゃない…

…ユードラがやってきてからのわたしはなにかおかしい。このままうまくいけば教皇様の理想は大きく前進するだろう。そして、教皇様はいよいよ引退してしまう気でいる。それは好ましい結末なんだけど…だけど、わたしは迷ってる。教皇様、ほんとうにお別れしなくちゃいけないんですか?学びたいことはもっともっとあるんです。わたしは教皇様とずっと一緒に仕事がしたかったんです。

25. 試験勉強

船旅ってのはロマンチックだったりするんだろーか、なんてつまんない考えだった。自動操縦に切り替えてからロドニーは開口一番、

「剣術は習ったことある?」

と予想外の質問。

「つっても、覚えてるわけじゃないか。実践してみないとね」

船室にシミュレーターのグリッドが展開される。

「あ、ユードラ、それはまだ振り回さなくていいからね」

教皇様にもらった剣をしっかり握りしめているユードラにロドニーが笑いかけた。

「シミュレーション用のやつがあるんだけど…ああ、これかな」

ロドニーが白い剣の模造品を出してくる。

「ぼくが教えられるといいんだけど、剣術はぜんぜんダメなんだこれが。シミュレーターだし時間もあんまないけど、まあ、かたちにはなるでしょ」

ヴァーチャルの教官が登場。古代ローマのグラディエイターだった。

「たぶん、こんなことしなくても大丈夫なんだろうけどね」

26. 反抗期

リンゼイは封印バンテージに、かたっぱしからワイヤーを接続していた。ごめんなさい教皇様、リディアは悪い子です。携帯端末でコードを走らせる。だって、こんなやつにわたしの運命がかかってるなんて。拘束バンテージがはじける。あらためて考えると我慢なりません。黒いワイヤーが束になって皮膚を覆っていく。フルチェック。エラー無し。

「なんだ、自分で機能回復できるんじゃないの」

コクピットから振り返ってミラが言う。リンゼイは指先を大きな鈎爪に変えて言った。

「あなたが余計なことするようなら即刻八つ裂きにします。言わなくてもわかるでしょうけど」

「なーに。ずっとあのまんまだったらどうしようかと思ってたのよ。手間が省けたわ」

そうですね。普段のわたしならもっとはやく決断できてたでしょうね。リンゼイは端末を粉砕した。どのみち。後戻りなんかできない。

27. ロドニーの昔話

ユードラの能力は予想以上だった。シミュレーターにあるレッスンは一時間ほどで終了。

「むぅ…上級とかは入ってないのか…」

ロドニーは難しい顔をしている。

「ネットにアクセスするとバレちゃうからなぁ。もういっか。ユードラ、休んでいいよ」

ユードラはぽかんと立っている。

「きみは自分の体のことについて何も聞かされてないんだよね?」

ユードラはうなずいた。

「そっか。やっぱりそうなんだ。教会らしいやりかただね」

ロドニーが笑顔で不意打ちした。この顔にいつもドキドキする、とユードラは思った。

「ロドニーはなんでこんなことしてるの?あなたは神官じゃないんでしょ?」

「そうだね。ぼくの話もあんまりしたことないか。聞きたい?」

「うん」

ロドニーは冷蔵庫からレモネードを二本取り出して、ユードラに渡す。ロドニーは長い長い話を淡々とはじめた。

「どっから話したらいいかな。ぼくがこの仕事を頼まれたのは、ぼくらが向かってるところについてよく知っているからだろうね。短い間だったけど、ぼくはそこで働いてたことがある。教会ではエコーって呼んでるんだ。ぼくの一生はそこでの仕事に捧げられるはずだった」

「三年前の事件でなにもかも変わってしまった。地球と教会が戦争になりかけたんだ。もともと地球と木星の関係は良かったわけじゃないけど、長いことお互いを紳士的に無視して折り合ってきた。でも、ぜんぜん関係が無いかっていうとそういうわけでもなくて、お互いの商船は出入りしてるし、移民もいる。それが急に変わったんだ。プロフェットを攻撃してきたやつだよ。アレックス・イーノ。あいつのせいなんだ」

「そのころ、地球に派遣されてた木星の大使はリンゼイだった。そのリンゼイに暗殺工作の容疑がかけられたんだ。殺されたのはブライアン・イーノ少佐。情報部の偉いさんで、アレックスの息子だった。リンゼイは極秘事項の調査で、ブライアンに協力してもらってた。アレックスの主張は、リンゼイが教会の機密漏洩を恐れたんで、地球のラディカルな連中をけしかけてブライアンを暗殺した、って筋書きだった」

「アレックスは報復と称して、ヘリウム採掘リグを艦隊で包囲した。もう、資源目的のつまんない言いがかりだってことは見え見えだった。それなのに教皇様は軍隊を出さなかった。あくまで外交チャンネルでの事態の解決を目指すってことだった」

「ぼくはその決定に我慢できなかった。そのことで師匠と大喧嘩したんだ。師匠は教皇様の決定を尊重しろ、という。ぼくは怒った。地球圏から厄介払いしといて、利益が出るとなると血相変えて奪いにくる。そんな連中はクソだ、って。ぼくはエコーを飛びだした」

「同じような連中はほかにもたくさんいた。ぼくらは団結して戦うことに決めた。だけど、まともにやりあってなんとかできるような戦力は確保できない。それで、無人機を使ってリグを爆破する計画を立てた。むざむざ明け渡すくらいならそのほうがいいってことで、意見は一致した。スタッフは退去してたし、地球の戦艦も接収のためにドッキングしてて、タイミングとしては最高だった」

「ぼくらは死ぬまで戦う覚悟で、これで絶対に戦争になるって思った。ところが、そうはいかなかったんだ。教会はぼくらをあっという間に拘束して、行動抑制プログラムを受けさせた。この胸のマークがそうだよ。なにか問題を起こしたら、教皇様の発行するコマンドでぼくは問答無用で死ぬってわけ。木星では滅多にないものすごい厳罰だね」

「ぼくらがうまくいくもんかってバカにしてた外交は、結果を出しつつあった。アレックスの言い分はすぐに全部デタラメだってわかった。リンゼイとブライアンは傍目にも仲睦まじい間柄でございまして…って、驚いた?ぼくもマジかよって思ってたんだけど、あのリンゼイにもそういうことがあるんだ。地球では軍と情報局が実は対立してたらしい。地球も一枚岩じゃないって、ぼくははじめて知った。リンゼイは自分の潔白を証明するためにメモリーを公開して、地球の情報局から提供されたデータはそれを裏付けた。結局、戦争にはならなかった。ぼくは間違ってたんだ」

ロドニーは新しいレモネードを冷蔵庫からとりだした。

「そして、ぼくはこうやって罪滅ぼしのために働いてるってわけ。アレックスは軍の司令官を解任になったんだけど、どううまいことやったのか、またやってきた。きみと、きみの先にあるものを狙ってるんだ」

「わたし?」

「そう。リンゼイが調査してた極秘事項っていうのはきみのことなのさ。ぼくも詳しいことは知らないんだけどね」

「わたしは、いったいなんなんだろう?」

「それを確かめに行くのさ」

28. ひとり言

それからあとはとりとめもなく雑談した。ロドニーはいつの間にか丸くなって眠っている。スクリーンからちょうど木星が見える。ユードラは考えた。ロドニーはわたしはまだ本当のわたしじゃないって言う。本当の『わたし』って、いったいどんな人間なんだろう?リンゼイさんは今のわたしの体がどんなことになってるのか、なにも教えてくれなかった。なんでだろう?なにか大きなことに巻きこまれてる。命も狙われた。それも二回。なぜ、わたしを?

…考えがだんだんぼんやりしてくる。難しいこと考えるといつもこうだ。もうどうでもいいや。ロドニーはすぐにわかるよ、って言うし。

漆黒の宇宙、色とりどりの星、白い照明、空調のノイズ、ロドニーの寝息、レモネードのボトル。見えるもの、聞こえるもの、感じること。いつもとおなじ、はずなんだけど。

29. 試験

本番と練習ってまるで違うもんなんだね。エコーに着くなり、剣を持たされて、ハッチの前に立たされたユードラは思った。

「ほんとに大丈夫なの?トレーニングなんか一時間しかしてないんだよ?それになにが出てくるっていうの?」

「なにが出てくるかは、ぼくも知らない。まあ、バンテージもあるから大丈夫でしょ。それに…」

「それに?」

「きみが“本物”なんだったらなんの問題もない」

ロドニーはハッチの隙間からにっこり微笑んだ。

「じゃ、そーいうことで」

「えっ、ちょっと!」

ハッチは閉じられた。ユードラはひとりぼっち。沈黙。向かい側のハッチが開く。なにかがいる。呼吸音。ぼんやりした照明に黒い仮面が浮かび上がる。鎌を持った巨人。仮面が静かにユードラを見据えている。ユードラは剣を構えるのも忘れて、その暗い瞳に捕われていた。

時間が永遠に伸びていく。この感じ。爆弾のとき、白い仮面のとき。でも、今日は違う感覚が…

鎌が振るわれて室内の空気を二つに切り裂く。ユードラは身を沈めて躱していた。あの電子音が聞こえる。ぴぴぴぴぴぴ。鎌が再び振るわれる。ユードラは跳躍した。

ユードラの右腕が変形する。気密服が裂け、巻かれたバンテージとユードラの組織が、絡みあった鎖になって剣を掴む。体を回転させ、剣を振り下ろす。加速した剣はそれを受けようとした鎌と仮面を断ち切る。巨人の素顔があらわになる。

剣はその勢いのまま床に突き刺さり、そして、ユードラが落ちてくる。ブーツが破れ、中から鈎爪が飛びだしてユードラを床に固定する。剣が床から勢いよく引き抜かれ、そのまま頭上に高く掲げられ…自分がバラバラになる瞬間、異形の巨人は歓喜の表情を浮かべた。

30. 待っていた男

「まさかお前が連れてくるとはな、グリンウッド」

「ぼくだってまさかこうなるとは思わなかったさ」

巨人の次に二人を出迎えたのは、痩せた中年男だった。

「きみが後継者か。門番を突破したということは本物なのだな」

ユードラはまだ朦朧としていた。まだ右手には剣が握られている。全身は返り血をあびて汚れていた。

「美しい少女だ。教皇様によく似ている。まず身なりを整えないといかんな」

中年男は優しくユードラの髪を撫でた。

「ちぇっ、ロリコンめ」

ロドニーがつぶやいた。

31. エコー

「エコーが見えてきたよ」

ミラが告げた。エコーは小さな小惑星だ。

「手が早いというか…いろんな連中がスキャンにひっかかってる。一悶着ありそうだね」

リンゼイは黙って聞いていた。

「このままランデブーするよ。構わないわネ?」

「…任せる」

ほどなく船はエコーに接続された。

「さて…あなたは来ないの?」

「そんな暇、なさそうじゃない?」

「…そうね」

「あー、最後にひとつ。勝手に死ぬのは無し。いいわね?」

「…」

リンゼイは黙って出ていった。ほんっと。かわいくないんだから。

32. リプレイ

ユードラはおかしなスーツを着せられて、大げさな椅子に座らされていた。

「さて、いささか不本意なかたちではあるが、ついに我々は主賓を迎えることができた。今、ここに全てを明らかにする時がやってきたのだ」

あいかわらず大げさなヤツだ、とロドニーは思った。わからなくもないけどね。何十年も待ち続けてたんだから。

「いいかね、ユードラ。きみの精神はリングにやってきてからというもの、本来のかたちで動作させることはできなかった。残念なことに我々の敵は多すぎるからだ。幾度の妨害さえなければ、遥かに円滑に事が運んだことだろう。誠に申し訳ない」

マウリシオは大きく息を吸って続けた。

「しかし。それもこれで終わる。ここできみの精神を完全なかたちで再起動させる」

ユードラは思った。わたしは本当のわたしになるのか。

「残された時間は少ない。再構築プロセスを開始する。いいね?」

ユードラはうなずいた。

装置が起動し、低音域の波形を奏ではじめる。ユードラの触角が同調をはじめる。ずれていた位相が次第に重なって、完全に一致する。

ぴぴぴぴぴぴごんごんごん。

振幅が次第に増幅され、ユードラの肉体が振動しはじめる。臨界に達したとき、ユードラの体は液状になってはじけた。服と人口器官を残して。ユードラを構成していた液体は、渦を巻いて装置に吸引されていった。そして、オレンジの液体が満たされたシリンダーの中に、赤黒い球として固定された。

「成功だ。あとは彼女次第」

ロドニーは液状のユードラが収まったシリンダーの中をみつめている。

「あとは彼女次第、か」

「戦闘用のセンサー、強化骨格。それにしても…ちと仕掛けに凝りすぎではないのか。記憶はともかく、感情まで抑制する必要があったとは思えん。これでは博打も同然だ。わたしはこういうやり方は好かん」

残ったユードラの機械の右目を、ジャグラーよろしく扱いながら、マウリシオは言う。

「そうでなきゃ、彼女、正気でいられたと思う?」

「恐怖すら感じないのは人間といえるのか?」

「それもこれも教皇様の考えなんでしょ?」

「…お前はどう考える?」

「ぼくには選択の余地なんかないよ。善悪なんかぼくが決めることじゃない」

「…そうだな。あなたはどうだ、大神官殿」

リンゼイが戸口に立っていた。

「…ミラが手伝えって。ロドニー」

「あいよ。神官の重装甲だね、はじめて見た!結構かわいいんだね、もっとゴツいのかと思ってたよ」

ロドニーは笑顔で手を振る。

「んじゃね、マウリシオ、リンゼイ。いい結果になるといいね」

ロドニーは去っていった。

「あなたにはこれ、マウリシオ」

リンゼイがうっすら発光する宝石の玉を投げる。微弱重力のなかをゆっくり漂っていき、マウリシオの骨張った手に収まった。

「教皇様が、よろしくね〜、だって」

「そうか、やはり御自身は…」

「…」

マウリシオはしばらく玉を見つめていた。そして、それをポケットに押し込むと毅然として言った。

「エコー外壁からの通路は全てここの正面通路につながっている。そして、この奥が『子宮』だ。その“時”が訪れようが訪れまいが、できるだけ長く我々で守りきらねばならん」

「わかってます。もちろん」

33. ユードラの物語:その一

アラームが鳴ってる。ん?なんか起きなきゃいけない用事なんかあったっけ?思い出せない。リンゼイさんに聞けば…って…だれだそれ?

飛び起きる。いつもの部屋、いつものベッド。なにか夢でも見てたんだろうか。うーん。

レコードバッグ。部屋、散らかしっぱなし。そうだ。今夜はわたしのギグなんだった。

シャワー浴びて、着替えて、レコードも適当に詰めて家を出る。といっても、クラブはわたしの住んでるアパートの地下にあるからそんな慌てることもないんだけど。

いつもどおりプレイする。セットの物珍しさにオタクが寄ってくる。わたしのセットは二〇世紀終わり頃とおなじ。プラスチックのディスクを針つきアームでトレースする、超古典スタイルだ。いまどきディスクなんか使うDJはめったにいない。みんなはコンソールから直接ネットにアクセスしてトラックをブラウズしたり、メモリにトラックを詰めてきたりしてる。契約してるクラブならトップDJのプレイがストリーミングできたりするけど、うちのクラブはそんなのとは無縁のインディーだ。

わたしのディスクはレプリカのビニールと似てるけど、もうちょっと複雑なものだ。インテリジェントな素材でできてて、フォーマットすると溝なしのつるつるになる。これをレコーダーにのっけるとディスクが自分で自分に溝を刻む。ラベルを貼付けたら一丁上がり。飽きたらまたフォーマットして、改めて溝を刻ませるだけ。ここまでが普通の使い方。この母さんの形見のディスクとわたしの組み合わせはもっとすごいのだ。わたしがディスクに触れれば、音の刻まれた溝をリアルタイムで変化させられる。すこし集中すれば完全なインプロビゼイションだって可能だ。そのときががわたしのショータイム。ほかの誰もここまで自在にディスクを操れない。母さんでさえも。

まあ、それでお客さんが喜ぶかどうかはまた別問題。たいていやりすぎて、いつのまにかフロアから人がいなくなってる。オタクと、オーナーのリチャードと、興味津々のDJ仲間、それくらい。今日もそんな感じでギグは終了。入れ替わりにジェフがプレイをはじめるとフロアにクラウドが帰ってくる。リチャードが苦笑いで迎えてくれる。わたしも苦笑いで返す。はい、またやってしまいました。リチャードはおでこにキスしてくれた。

リチャードはこのクラブのオーナーで、建物全体の所有者でもある。趣味人の資産家ってやつ。アーティストだった母さんの友人だったそうだ。父さんが死んでから——あの光景は絶対忘れられない——ごたごたに巻き込まれてひどい生活を送ってたわたしを助けてくれた。部屋をくれて、クラブでプレイさせてくれて。人生をわたしにもう一回見せてくれた。わたしは彼が大好きだ。憧れてる。ていうか、はっきりいって愛してる。

一度、思い切って告白したことがある。心臓の鼓動で頭がガンガンして、ストーブの真っ正面に突っ立てるみたいだった。そのときのリチャードの言葉はショックだった。

「おれはね、きみをずっと守れないと思うんだ。うれしいけど、応えてあげられないよ。おれはそれに値しない人間なんだ。ごめんね」

悲しそうに彼は言った。わたしはポロポロ泣いた。部屋で毛布にくるまって、言わなきゃよかったって後悔した。次の日、リチャードはいつもどおりだった。わたしはまた泣いてしまった。彼はわたしの頭をくしゃくしゃなでた。

またアラームが鳴って遅い一日が始まる。

メッセージが入ってる。リチャードからだ。店に来たら、まず事務室においで。なんだろう?

事務室は真っ暗だった。

「どうしたの?リチャード…」

リチャードはシルエットになってた。後ろ、向いてる?

「ごめん、ユードラ。おれはやっぱりきみを守れなかった。遅すぎたんだ」

他の人間の気配がする。後ずさりすると背中に硬いものがあたった。

照明が灯される。そこには一生見たくない顔があった。

「きみを逮捕するよ、ユードラ・アシュレイ」

セイイチロウ。体が震える。震えて止まらない。

「リチャード…たす…けて…」

「ごめん。もうだめなんだ」

わたしたちをアサルトライフルの銃口が取り囲んでる。わたしの人生は、また砕けてしまった。

34. ユードラの物語:その二

鉄の味がする。鼻の下が熱い。手首がきしむ。セイイチロウの恫喝が遠くで聞こえてる。ああ、またこれを聞くはめになっちゃんたんだ。涙がにじんできた。

「きみは…なんて恩知らずだ。どうしてぼくを裏切ってあんな男のところで。答えろ!」

聞きたくないくせに。わたしの言葉なんか聞きたくないくせに。

また床に叩き付けられる。手錠されてる手首がぬるぬるしてきた。指が痺れちゃってる。わたしの手をどうするつもり…!

こんちくしょう。ようやく体を起こして睨みつける。

「…わたしは…あなたの奴隷じゃー…ない」

「きみの父さんの件で尽力したのはこのぼくだぞ。そうでなければきみは一生隔離施設だったんだ。わかってるだろう」

ああ、そのころのセイイチロウはやさしかったよね。わたしは見抜けなかったんだ。あなたの暗い部分なんか。見えなくてよかった。

「…感謝はしてる…よ…けどね…」

口と鼻から熱いものがぼたぼたこぼれてる。

「わたしは…あんたなんか…大っっ嫌い」

衝撃で世界が消えた。

35. ユードラの物語:その三

それからどのくらい経ったんだろう。

光を見るのはあいつがやってくるときだけだった。殴られて優しくされてやらしいことされて注射されて泣かれて怒鳴られて。前に逃げ出したときより、サディストぶりは輪をかけてエスカレートしてた。ひとごとみたいに日々が過ぎてく。いっそわたしがなくなっちゃえばいいのに、って思った。

でもダメだ。そんなのムカつくったらありゃしない。これはわたしの人生だ。だれかに助けてもらったら、一生そいつの持ち物なわけ?そんなの、ありえない。わたしは自由になるんだ。だから、あいつを殺さなきゃ。二度とわたしの人生に登場しないように。殺してやるんだ。やれ、ユードラ。

その瞬間は、というと。そのとき、セイイチロウはわたしに触れようとした。鈍い感覚がおなかのあたりから目の裏側まで突き抜けた。首筋に鳥肌が走った。かけられてた手錠が砕けた。破片が手首に食い込んで痛かった。視界が赤く染まった。わたしの右手はセイイチロウの首を握りつぶしてた。セイイチロウは、口から血の泡をまき散らしてた。わたしの右腕が変なかたちに伸びて、セイイチロウを壁に叩きつけた。彼はそれっきり動かなくなった。それでもわたしは止まらなかった。我に返ると、セイイチロウは引き裂かれた肉片になっていた。自分の右手が彼の心臓をつかんでた。どこもかしこも血まみれだった。わたしは吐いた。胃がからっぽになると、残った力できれいなところまで這っていって、壁にもたれて眠った。

そして、また時間が過ぎた。うふふ、わたしは、もう自由だ。わたしをいじめるヤツはいなくなった。ものすごい疲れちゃったけど、もう、好きなだけ眠ってればいいんだ。顔がにやける。

それからまた、時が過ぎた。どのくらい経ったかはわからない。

外で物音がする。セイイチロウはもういないのに。なんでだろう。ドアが大きな音を立てて破られて、銃を持った人たちがなだれ込んできた。また、わたしを捕まえにきたんだろうか。そんなのいやだ。でも、もうからだが動かない。

話し声が聞こえる。

「これは…ひどいな。遺体は犯人のものだね、おそらく」

男の人。優しい声だ。セイイチロウのヒステリー声とは大違い。

「ユードラは無事ですか?」

今度は女の人の声。かわいい声だ。

二人のシルエットが近づいてくる。男の人は青い瞳、女の人は赤い瞳。

「被害者を発見。外傷がひどい、かなり虐待されていたようです。医療班」

「これは…脱水症状も起こしています。すぐに手当てしないと。わたしの医療キットを使っても構いませんね?」

「お願いします」

女の人がわたしの手をとった。なめらかな指。

「こんにちは、ユードラ。わたしはリンゼイ、木星軌道教会の大使です。よろしくね」

なにか言おうとしたけど、声は出なかった。世界が暗転、わたしは奈落へ落ちていく。

36. リンゼイの物語:その一

ユードラは眠りつづけていた。外傷はすっかり治っている。傷ひとつ残さない、完璧な地球の医療技術は素晴らしい。しかし、心の傷はそう簡単にはいかない。今のテクノロジーなら瞬間的な気分の問題はなんとでもなるのだけど、これはもっと深いレベルの問題だった。

ユードラの精神マップは不活性なうえ、かなり歪なパターンを示している。これでよく精神が崩壊しないものだ。ここがリングだったら神経補助ハードウェアを埋め込めるのだけど。

「なにを考えてるのかわかります、リディア。不自由ですいません」

「あなたが気に病むことでは…」

ブライアンは情報部の分析局の局長で、軍の少佐だった。彼は地球サイドのアシュレイ博士の件の担当だった。まったくの異邦人であるわたしのために、彼には気を遣わせてばっかりだった。知識では知っていたが、地球とリングはテクノロジーだけでなく、倫理や文化の面でも大きな差異がある。わたしはどこへいっても異質だったし、わたしが見るものもそうだった。一番参ったのは体格。リング生まれの平均身長は、地球よりかなり低い。中でもわたしはいちばん小柄なほうなのだが、地球ではそれが一層際立ってしまっていた。子供と間違われるのは屈辱だった。威圧感を与えないのはいいことなのかもしれないけど。さては教皇様、わかっててわざと…って、まあ、それはいい。

「どうかしましたか?」

「すいません、ちょっと考えごとを」

モニタに見えるユードラは穏やかな寝顔だった。この少女が、自分の手で人ひとりをバラバラに引き裂いたのか。わからないことだらけだった。

37. リンゼイの物語:その二

その日も彼の部屋で目覚めた。外はまだ暗かった。

「どうかした?」

「いえ…」

「ユードラのこと?」

「…」

大使として地球に赴任して一年。ジョナサン・アシュレイ博士の死からは二年が過ぎていた。アシュレイ親子のリングへの移民申請が正式に受理された直後、博士は娘のユードラによって、自宅の地下の実験室で遺体で発見された。ユードラの母、ルーシーの腐食したクローンたちと共に。汚染を恐れた保健局は自宅とユードラを隔離した。リングの基準では理解できないのだが、地球というところは細菌や化学物質による汚染を極度に恐れる傾向がある。リングだけでなく地球の学者によるシミュレーションでも、地球の生物圏に与えうるリスクは局所的にもまったく無視できるレベルだったというのに。

問題はそれだけではなかった。保護者のいないユードラの国籍が宙に浮いてしまったのだ。リングと地球の交渉はもともと親密とはいえない外交関係を反映して難航していた。

このときの事件の担当というのが、ユードラを監禁していたあのイノクマ・セイイチロウという刑事で、へたをすれば一生隔離生活ということになってしまいかねないユードラのために尽力していた。動機はともあれ、彼のおかげでユードラは自由を得て、地球の法律で成人と認められる年齢に達するまで地球と教会リングの両方の国籍を持てることになった。

しかし、そのあとすぐユードラは行方がつかめなくなっていた。

「心配?」

「…はい」

アシュレイ博士は死の直前、教皇様のもつ能力、“シンセシス”についての共同研究のために秘密裏に教会に接触してきていた。

シンセシスはタチアナ卿がデザインされたスターチャイルドのなかでも末娘の教皇様、アナスタシア卿だけが使える能力だった。これは物質の組成を組み替える能力で、教皇様は充分な質量の物質さえあれば、元の物質とは全く異なった様々な物体を創造することができる。ほかのスターチャイルドの方々の能力、たとえば形状を自由に変えられる増加皮膚、“スキン”のコントロールなどは、改良されてわたしたち神官のデザインに受け継がれていたが、シンセシスだけは例外で、なぜこの能力が発現したのかいまだに謎だった。この能力が教会のテクノロジーを大いに進歩させ、その独自性とあいまって教皇様の権力と教会の地位を不動のものにしていた。リングの前時代的ともいえる特殊な政治機構が成立しているのも、この能力に負う部分が大きかった。教皇様はつねづね「不自然で時代遅れだけど、これしかない状態」とおっしゃっていた。

アシュレイ博士の研究の要旨には目を通した全員が驚いた。シンセシスをもつ人間、“シンセサイザー”の創造計画だったからだ。アシュレイ博士の死とルーシーのクローンたちがこの計画に関わっている可能性は濃厚だった。この件に関する情報収拾はわたしの極秘任務だった。

「だいじょうぶだよ、きっと」

しかし、ブライアンとまさかこんな関係になるなんて思ってもみなかった。自分でも驚きだった。木星ではまるで縁がなかった、というより異性を意識したことがなかった。彼に隠しごとをするのはつらかった。

「きみはきれいだ。地球のどの女性よりも」

ブライアンはわたしの髪をやさしく撫でた。

38. リンゼイの物語:その三

連絡が入ったのは早朝だった。

「ユードラ・アシュレイの病室は封印しました。非常に危険な状態です」

モニタを確かめる。眠っているユードラのまわりを、小人が埋めつくしていた。指のない手足を持った無毛の小人たち。

「精神マップはどうなってます?」

モニタに表示されたパターンは…なんてこと、実の娘が実験体だったなんて。

「シンセシスです。強烈に発現してますね」

「ええっ?」

「聞いたことはあるでしょう?」

医療スタッフは信じられないといった様子でうなずいた。

ブライアンがやってきた。

「リディア、これはいったい」

ブライアンはモニタに釘付けになった。

「これは…だけど、そんなまさか!」

「あなたも知っていたのですね」

部屋の外壁が変質をはじめていた。なにもしなければ暴走は必至だった。

「ユードラを止めます。リングのツールを使います、いいですね?」

「うっ…わかった、まかせる」

スキンを起動させたときのスタッフの驚きといったらなかった。

「気をつけて、リディア」

変質は部屋から通路に及ぼうとしていた。壁と床が脈動してる。開かないドアを切断すると、こんどは小人の群れの襲撃だった。ユードラは自ら生みだしたものに溺れかけていた。壁材と同化しはじめている部分はむりやり切断するしかなかった。鮮血が噴きだして、ユードラの精神が痛みに目を覚ます。絶叫。たすけて、リチャード、リチャード、リチャード。自分が同調しないように感情を抑制するのが精いっぱいだった。強制モードを使うと骨格が軋んだ。ごめんね、ユードラ。抑制ツールを打ち込む。ユードラは目を見開いたまま一瞬硬直し、それからぐったりした。部屋の小人たちも一気に崩れて組織の固まりになった。

「リ…チャー…」

ユードラの精神マップは昏睡を示した。わたしは自責の念にかられた。わたしたちは、わたしたちの理念のためにこの子の力を利用するつもりなのだ。どんな手を使っても。

「父さん、待ってくれ!」

ブライアンの声でわたしは我に返った。

「地球でその力を使うのは条約違反ではないのかね、リンゼイ大使」

アレックス・イーノ大佐。ブライアンの父。

「緊急事態だったんだぞ。大使の協力なしでは、この程度では収まらなかった、合理的な判断だ」

アレックスの瞳は異様な眼光を放つ。わたしから視線を一瞬も逸らさなかった。

「まったく、美しい女性というのはいいですな。若い男は皆、貴公の味方でしょう」

「大使を侮辱するな、お互いさまだろう」

「まさか。褒め言葉だよ。うちの部隊は無駄骨だったようだな」

ブライアンは父親の件ではいつもの冷静さが欠けていた。気持ちはわかる。しかし、それと政治は別のことだ。

「父さんは、きみとユードラごと施設を焼却するつもりでいた」

ブライアンが憎悪をまったく隠さなかったのは、後にも先にもこのときだけだった。この事件を境に、彼は約束された未来から逸脱しはじめた。しかし、このときのわたしは疲れきっていて、違和感を思考に変えることができなかった。重力圏での慣れない活動、神経への過負荷。恋人を裏切ったこと。

「リディア!」

スキンが寿命をむかえて分解されると、支えを失ってわたしはその場に倒れてしまった。ブライアンがわたしを抱きかかえてくれた。わたしはずっと謝っていた、らしい。泣いていたかもしれないが、ブライアンは教えてくれなかった。

39. リンゼイの物語:その四

続く地球時間で一ヶ月、わたしは地球で静養していた。てっきりリングへ帰還させられるものと思っていたのだが、アレックスの強い要望で駐留することになった。この件ではお互い歩み寄って協力する必要があります、リンゼイ殿の勇気には軍人として感服しました、彼女こそこの案件の適任者です、うんぬん。驚きだった。アレックスはわたしとブライアンの関係を快く思っていなかった。彼は月や火星コロニーの政府との関係ですら強硬路線を支持していたし、ましてやアステロイドベルトより外周の“異端”人類は潜在的脅威としか認識していなかった。そして、わたしはアシュレイ博士の研究に関する情報を隠していたのだ。

ブライアンはそれでもちょくちょくわたしを見舞ってくれていた。正直な話、控えめにいっても、うれしくなかったといえば、嘘になる、かもしれない。

「ユードラはまだ眠ってる。バイタルも精神マップも安定してるけど、どうしたものか…」

「…」

「ふたりめのシンセサイザーか…しかしこれはやっかいだな」

「…あの…ブライアン、わたしは…」

「…言わなくてもいいよ。ユードラを木星に連れてかなきゃいけない、でも理由は明かせない。そうでしょ?」

「…はい」

「いや、いいんだ。それがきみの任務なんだ。気にしないで」

「ほんとうに…ごめんなさい」

「頼むから、謝らないで。お願いだ。ぼくにはきみにそんな顔をさせる資格なんかない。いい?これはぼくのひとり言だ、きみはたまたま聞いただけだからね」

ブライアンは淡々と続けた。

「ぼくに個人的にきみに接触するように指示を出したのは父さんなんだ。父さんはかなり前からアシュレイ博士の研究の件について、なにか掴んでたらしい。博士が木星軌道教会に接触したのも知っていた。だけど、それがどんな内容かまではわからなかった。そして博士は死に、リングからは新しいエリート神官のきみがやってきた。これはなにかでかい裏がある、と感じたんだろう。父さんはそういう勘はよく働くんだ。そこでぼくの出番ってわけ。なんとか大使に取り入れ、ってさ。ぼくは心理クラスではトップだったから。よくお遊びで女の子を口説いてたのも知ってたんだろうな」

検討していた可能性ではあったのだけど。

「でもね、リディア。信じてほしい。きみは特別なんだ。ほんとうだよ」

「ブライアン…」

「父さんはこの件を利用して木星を孤立させようとしてるんだ。木星資源を独占してるリングが勢力を拡大するのを恐れてるからね。そして、地球にいるシンセサイザーの存在はリングに対して大きなアドバンテージなると考えてる。でもね、地球市民の多くはそんな異次元の厄介者と共存なんかしたくないんだよ。そうでなかったら、君たちが木星圏にまで追いやられてるわけがないんだ。突破口はそこさ」

ブライアンは立ち上がった。

「ぼくは…きみもユードラも死なせない」

それからほどなくして、ユードラの木星への搬送が合意になった。彼女の治療にはリングが適している、との判断だった。すぐにユードラは搬送用カプセルに入れられて、軌道エレベーターで宇宙に運ばれていった。気持ちが悪いほどスムースだった。

40. リンゼイの物語:その五

わたしの体力が回復すると、ブライアンはわたしを食事に誘った。

はじめて二人で出かけた日のことを話した。わたしはブライアンの申し出をさんざん丁重に断り続けていたのだが、秘書のアニタに、

「大使がお忙しそうでしたから、わたしが代わって快く承諾しておきました。あさって十八時にお迎えにこられるそうです。大使は薄情すぎます、あんないい方なのに」

とまで言われて、とうとう根負けしたのだった。地球の文化には疎かったので、滞在の長いアニタに服を選んでもらった。正確には、いつもの黒いスーツで出かけようとしてアニタに止められたのだけど。リンゼイ、あなたという方はまったく困ったもんです、交渉に行くんじゃないんですよ。アニタが選んでくれたのは、黒いロングのワンピースに白いフリルのブラウス。黒じゃないと落ち着かないでしょうから、色は妥協しておきました。迎えにきたブライアンは、しばらくわたしを見つめて固まっていた。やっぱりおかしいですか?と聞いたら、全力で否定された。いや、そういうことではなく…驚きました。

彼が予約したレストランでは、わたしが消化できる類の食べ物がなかった。バーではセキュリティに止められた。子供さんはちょっと。ブライアンがわたしが木星出身だと説明すると、まるで珍獣でも見るかのような驚きようだった。わたしがよっぽど不機嫌な顔をしていたのだろう。ブライアンは混迷した段取りに再び秩序と光を取り戻さんと必死だった。思わずわたしは吹きだした。お願いがあります。わたしに海を見せてください。承知しましたっ。ブライアンは車をとばした。

夜の海岸は神秘的、という言葉がふさわしかった。地球の環境は、産業革命時代から比べるとはるかに清浄だった。澄んだ空、明るい月、煌めく砂、波、水平線、発光する藻類を利用した街灯。砂浜に並んで座って、とりとめなく話した。わたしは木星のこと、教会のこと、彼は地球のこと。

それからは、この海が見えるテーブルが指定席になった。決定に当たっては情報部の威信にかけて綿密な調査を行いました。いかがですか大使。

「覚えてますか。あなたがわたしの年齢を尋ねたときのこと」

「あれはすごいショックだった。地球年齢で一五歳って、本当だったのか!子供じゃないか!って。えと…見た目だけじゃなくて」

ブライアンはばつが悪そうにつけ足した。彼の、なんだかんだで正直なところがわたしは大好きだった。

「見た目のことは気にしないで…わたしだけちょっと特別だったりするみたいだし…わたしたちのライフサイクルは地球ではほんとうに知られてないのだと知りました」

「すごく長生きだってことしか印象になかったよ。地球にはスターチャイルドより後の世代の資料は少ないんだ。木星生まれは成人するまでの成長が圧縮されてることも、情報部のデータベースじゃわからなかった」

ブライアンから笑顔が消えた。

「…いろいろあったけど…これまでどおり、いい関係でいてくれるかな。きみがよければ、だけど…」

わたしは、はい、とだけ答えた。ふたりとも真っ赤になって、それっきり言葉が続かなくなってしまった。

「…ユードラの件、ありがとうございました」

「いいんだ。それよりこれ」

ブライアンが包みを差し出した。

「え?」

「開けてみて」

珊瑚のペンダントだったが、当時のわたしにはどういうものかわからなかった。

「え?」

「ん?木星じゃ、プレゼントはしないの?」

「あ、いや、そういうわけじゃ。ありがとうございます」

「つけてみてよ」

「え?」

「木星にアクセサリーはないの?」

「いえ、たくさんありますけど、わたしはこういうものを身につけたことがなくて…」

「つけてあげる」

ブライアンが苦心して革紐をとめてくれた。

「指輪はスキンを使うからつけられないんだよね。それならどうかなと思って」

ペンダントを手にとってまじまじと眺める。顔をあげられなかった。

「とても…きれいですね」

41. リンゼイの物語:その六

ブライアンの死を知ったのは、アシュレイ博士の研究に関する最初のミーティングを、地球の科学者たちと終えた直後だった。頭部の大半を吹き飛ばされていて、 DNA 鑑定でなければ本人と識別するのは困難だった、らしい。遺体の映像はだれも見せてくれなかった。

ブライアンの恋人であったわたしは、この殺人事件への関与を疑われることになった。たちまち事態は重大な外交問題に発展した。木星圏では武力衝突が起きていた。大使館は包囲され、スタッフは身動きがとれなかった。妙だった。速すぎる。これが誰の策略かは見当がついていた。木星攻撃の指揮はアレックスが執っていた。

通信が妨害されていて、教皇様とダイレクトリンクする帯域を確保するのは一苦労だった。バーチャルが展開されて、教皇様のアバターが現れる。

「アニタからとりあえずのことは聞いています。そちらは大丈夫ですか」

「はい」

解像度が低くて、教皇様の表情はよくわからない。

「…イーノ少佐のことは残念でした」

「リングは混乱してませんか?」

「こちらの心配はしなくていいから。何か頼みがあるんでしょう?」

「はい。わたしの“メモリー”を公開したいのです、無実を証明するために」

神官の記憶は、定期的に専用のインターフェイスを介して記録可能なフォーマットに変換され、第一リングプロフェットの中枢部にあるデータベースに保存される。そうして収拾されたメモリーの主な使用目的は次世代の神官の育成のためで、管理の全権限は教皇様にある。そして、教皇様でもオリジナルのメモリーの内容は改変できない。わたしの思いつく限り、自分に関する記録でもっとも信用できるのはこれだった。

しかし、メモリーの内容を公開するということは、機密事項が白日の下にさらされるということでもある。

教皇様は少し考え込んだ。

「わかりました、許可しましょう。すぐに必要な部分をエディットして転送しますね」

「あの…」

「ん、どうかしましたか?」

「こんなことになってしまって…わたしが私情に流されたせいでブライ…イーノ少佐は死んでしまった。木星と地球も戦争になりかけています。わたしは大きな間違いを犯してしまいました」

「それは傲慢な考えなのですよ、リディア」

「えっ」

「ある面ではあなたの言うことはもっともなのですが…あなたとイーノ少佐の関係がなかったら、ユードラを見つけることはできなかったのではないですか?」

「それは…」

胸元に手をやったが、バーチャルにはブライアンにもらったペンダントはインストールしていなかった。不安になると触る癖がついてしまってることに、このとき気づいたんだった。ペンダントがないことが、強烈な喪失感を呼び覚ました。

「未来は誰にもわかりません。実際、望んでいたような理想のハッピーエンドを迎えられることのほうが珍しい。ほとんどが後悔することばかりです。そうして年月を経ると、後悔の錆が精神を覆いつくして、なにも感じなくなっていく。それを時に成長と呼ぶわけですが。でもね、リディア。自分を過小評価してはいけません。たしかにあなたの失ったものは大きかった。心の傷は、幾年の時を経ても疼き続けるでしょう。でもね、リディア。あなたが思っているよりあなたの得たものは大きい。地球の情報部のスタッフにはあなたに好意的な人が多いそうですよ。お似合いだったのでしょうね」

「えっ」

「ふふ、それはさておき。地球の情報部のほうからこちらへ暗号通信が送られています。イーノ少佐の部下だった方だそうで。やはり軍部の独断のようですね。平和的な解決を目指して協力していただけるそうですよ」

教皇様はにっこり微笑んだ。

「やんちゃな子供たちのことは任せておきなさい。だいじょうぶ。あなたはかならずリングに戻れます」

地球の連邦議会では、アレックスの秘密メモが暴露されて紛糾していた。決定打はブライアンと彼のチームがまとめた資料、それにわたしのメモリーだった。事態が明らかになり、議会は軍の撤収を決定した。アレックスは司令官を解任された。アシュレイ博士の研究に関しては、今後も木星軌道教会と地球連合政府間で協議を継続するという、政治的な決着をみることになった。

木星に帰還してすぐ、教皇様とお話しする機会があった。

「おかえりなさい、リディア。ご苦労さまでした」

「…処分は覚悟してます」

「まったく、しょうがない人ですね、あなたは。ひさしぶりに帰ってきたのに、最初の台詞がそれですか。四角四面にもほどがあります」

「…すいません」

「ふふ、まあいいでしょう。あなたらしい」

教皇様は心配そうな表情になった。

「それで、もう大丈夫なのですか」

「…はい」

ああ、またわたし、ペンダントを触ってる、と思った。

「きれいなペンダントですね。珊瑚は痛みやすいから、コーティングしたほうがいいですよ。ステラにお願いしておきましょう。ところで」

こんどはいたずらっぽい表情で、教皇様が続ける。

「あなたがあんなに積極的な子だったなんて、わたしも驚きました。いい年こいて赤面しましたよ。まったく、ひとはわからないものですねぇ」

「…あう…いやその…」

ああああああ。そうでした、メモリーにはプライベートなこともすべてひっくるめられてるんでしたそうでした。

「ふふふふ、少しは泣くような気分になりましたか」

「えっ」

このとき、わたしは涙を流していた。自分ではぜんぜん気づいていなかったけど。教皇様は微笑んでいた。

「ユードラがリングを気に入ってくれるといいですね、リディア」

「…はい…」

わたしは、珊瑚のペンダントを握りしめて、涙の玉を作り続けた。

42. それぞれの立場

ロドニーからの通信で、リンゼイは過去から引き戻された。

「向こうの戦闘艇が動きはじめた。揚陸艦もいる。リングを攻撃してきたやつじゃなくて、種をばらまくタイプだ。火星のだね」

「ミラ、見えてる?」

「まずいわね、全部落とせないかもしれない。援軍は来ないの…って、呼べるわけないのか」

「そうね。マウリシオ、プロフェットとのネットワーク復元、サヤカとドロレスを呼びだして」

「了解した」

「ちょっと!」

「火星の艦隊がいるんでしょう?たぶん向こうも大変なことになってるはずです」

「リンゼイ!」

「リンゼイ!」

「サヤカ、ドロレス、そっちも足止めされてるのね?」

「所属不明ってことになってる火星と地球の連合艦隊と、うちの艦隊がお見合い中。そっちに行かせないつもりみたい」

「他のリングから何隻かエコーにまわそうか?」

「いえ、こちらはもう相手が動きはじめました。間にあいません」

「どうする?」

「ミラ、あなたを大神官に任命します。サヤカ、ドロレス、いいですね?」

「なっ!」

「承認」

「承認」

「アンタたちっ!」

「さて、手続きは終了。あとはあなた次第ですね、ミラ」

「いいじゃない、全部チャラにしてあげようってんだから、悪い取引じゃないっしょ?」

「じょうっっだんじゃないッ!あたしは地球の連中と一生戦うんだッ!神官になんかぜっっったいになるかッ!」

「あなたらしくないね。今、まさにこれから地球の連中とドンパチ戦うっていう、あなたの願ってもないシチュエーションじゃない。エミュレーターで戦闘は無茶なのはわかってるでしょ。全力で戦いたくないの?」

「うぅ…」

「すぐに結論を出せとは言いません。よく考えて。ロドニー、リーリェをエコーのパワーグリッドに連結して。余剰分の電力でもバレルの寿命までは撃てるでしょう。動けなくなるけど、エコーを盾にして。エコーそのものを吹き飛ばすようなことはしてきません。侵入してきた部隊はわたしが食い止めます」

ユードラ、あなたはどんな選択をしますか。

43. ユードラの物語:その四

母さんが死んだとき、お墓の前で父さんはわたしに言った。

「いいか、ユードラ。大切な人を失うのはつらいことなんだ。自分に責任があると感じるならなおさらね。ユードラが大きくなったらきっと好きな人ができる。そのときは、後悔しないように、その瞬間を大切に過ごすんだよ」

父さんは母さんの幽霊に取り憑かれてた。

家に帰ってきたら、家中なにかが腐った匂いでいっぱいだった。慌てて地下へ降りていく。研究室には勝手に入っちゃいけないって言われてたけど、かまうもんか。

扉を開けると、とんでもなくすごい匂いでくらくらした。でも、それから目を離すことなんかできなかった。部屋いっぱいに母さんと、その一部。中央の寝台にいる母さんが動かない父さんを抱きしめている。

青白い顔がこっちに向く。わたしを見て微笑む。さよなら、ユードラ。元気でね。母さんはそういうと、崩れて紫とピンクの肉塊になった。わたしは吐いた。

オレンジの液体に自分の体だった肉や骨や皮が落ちていく。やだ、母さんみたいになっちゃうの?手首のなくなった両腕。いやだこんなの。そう思ったら、ちぎれた部分から手首が生えてきた。完璧。えへへへ。

44. ほんとうの目覚め

そして、ユードラは砂浜に横たわっていた。波が足を洗う。

だれかが横で歌を歌ってる。ユードラは体を起こす。

「教皇様!」

「おはよう、ユードラ」

空はエメラルドグリーン、海はオレンジ。砂は白く、どこまでも。無限に続く波打ち際。教皇様は、はじめて会ったときとおなじ真っ黒のローブだった。

「ここはバーチャルなの。あなたの体は、ちょっとわけあって本来のかたちじゃないから」

「わたし…」

「もう落ちついた?なにもかもいっぺんに戻ってきて大変だったでしょう」

「…」

「最初の覚醒は正直なところ、賭けでした。目を覚ましても、あなたが自己破壊してしまう可能性が高かったし、実際そうなりかけた。あなたに生きる意志があってよかった」

「わたしは…わたしはなんで木星に連れてこられたんですか?」

「それは話せば長くなります。いいですか?」

ユードラはうなずいた。

45. 究極の選択

ミラはプライドを傷つけられていた。

“種”の第一波で彼女は三つ撃ち損じた。第二波では五つに増えた。コントロールの難しさは予想以上だった。リンゼイの報告では、打ち込まれた種は全てスキャナーということだった。侵入経路の調査だろう。次から本格的な攻撃が始まるという予想だった。ミラも同意見だった。

戦いに取り憑かれてる人間が、戦いで全力を出せないことほど惨めなことはない。サヤカに言われるまでもなく、これはわたし自身願ってもないシチュエーションだ、とミラは思った。だけど、代償が大神官なんて。

ミラは自分がエリートコースからドロップアウトした一件について、記憶を辿っていた。もう死んでしまった過去の親友たち。怒りが込み上げる。神官学校時代の淡くて黒い思い出。あたしは、エルヴィとサルバトーレが殺されるために道化になったわけじゃない。あの二人はお似合いだったんだ。とぼけたサルバトーレ、恥ずかしがりやのエルヴィ。そりゃあたしだってサルバトーレが好きだった、自分でもなかなか気づかなかったけど。でもね、エルヴィは大事な親友だったんだ。おとなしいあの子が、サルバトーレのことだけは必死だった。その空回りっぷりがイタかった。だから幸せになってほしかった。なんとかしてあげようと、あれこれおせっかいした。ふたりが一緒になって嬉しかった。なぜだか涙も出たけれど。月旅行に一緒に出発するのを見送ったのが、わたしが見たふたりの最後の幸せな姿だった。月の港で船が爆破されて、サルバトーレは胸から上の左半分だけになり、エルヴィは焦げた足首しか残らなかった。地球原理主義組織が犯行声明を出した。誇らしげな声明文。なに言ってやがるこのやろう、エルヴィとサルバトーレがなにしたってんだ。あんたらの自己満足のために、これからの幸せが吹っ飛んだ。冗談じゃない。その鼻っ柱へし折ってやる。でも、このまま神官になったらあいつらを叩きのめせない。あたしは神官学校をやめた。

そのあとは流れるがごとく。リングにはヤバい活動組織がびっくりするぐらいあった。そういう世界にはてんで疎かったけど、神官学校で主席争いをしてたあたしはどこでも貴重な人材だったから、潜り込むのにたいした苦労はなかった。まあ、ろくでもないところも多くて、教会の理念そっちのけで利権争いに暗躍してるような連中も多かった。そういうやつらとは当然トラブルになったから、遠慮なく殺していった。すぐにあたしは裏の有名人になった。

リディアは、あたしの行方を追っていたらしい。地球に赴任する直前に一度、ひとりで会いにきた。

「ただの暗殺者に落ちぶれてんじゃないかって、心配してたんですけど…」

「期待どおりだったでしょ?」

「…まあ、いいです。それじゃ」

「リディア、あんた、地球に行くんだって?」

「…機密事項…」

「ふふふふ。いいわね、敵の本拠地に堂々と乗り込めるんだから。絶好のチャンスじゃないの」

「…単純に世界を二つに分けて見る。感心しないですね」

「ふふふふふふ、せいぜい気をつけてね」

くやしいけど、正しかったのはリディアだった。イーノ少佐の件は、あたしの心の棘になった。彼は地球人なのに、とても近い存在に思えた。

教皇様は、あたしとのダイレクトリンクを残しておいてくれた。教皇様と会えるのは嬉しかったけど、心苦しくもあった。教皇様への忠誠は一生の誓い、それは変わらない。でも、あたしは役目を途中で放りだしちゃったのだ。だから、自分からアクセスすることはしなかった、というか、できなかった。だから、教皇様からのコールには正直、焦った。

「あの…教皇様は怒ってないんですか?」

「なぜです?」

「あたしは与えられた役目を、教皇様になんの相談もなく放棄してしまいました。なのに、教皇様はわたしを破門にするどころか、こうやって語りかけてくださいます。不思議です」

「あなたはわたしの大切な弟子です。今でもそれは変わりません」

「あたしはリディアみたいな優等生じゃありません」

「そんな謙遜は本心ではないでしょう?」

「う…そうですね、あたしらしくありません」

教皇様は笑った。

「ところで…ユードラの件は知っていますね?」

あたしは頷いた。

「彼女はわたしたちのネクスト・ジェネレーション・プロジェクトの要です。目を覚ましてくれたらの話ですが…」

「そんなに深刻なのですか?」

「わたしにもわかりません。そこであなたにお願いがあります」

教皇様は唐突に切り出した。

「ユードラを守るのに手を貸してください」

そして、あたしはこうやって戦ってる。

教皇様のプロジェクト“ネクスト・ジェネレーション”はわたしたちの未来だ。エコーはそのプロジェクトの中心。エコーの起動はユードラにかかってる。

だから…それまでは…

「…もう儀式の段取りも覚えてないや…」

皮膚の組成が変わっていくのが感じられる。これっきり?さぁね。

46. ネクスト・ジェネレーション

「あなたの肉体は今、再構成のためにゲル状に変換されています。それがこれ」

教皇様は透明な管の中の丸い玉を指して言った。

「目覚めたとはいえ、代償は大きかった。身体器官の四割ほどは人口のものと置き換えなくてはいけませんでした。精神マップも乱れていたため、感情や記憶も抑制しなければいけませんでしたし、不慮の事態に備えて特殊な装備も必要でした。あなたの命を狙うものから守るために」

「わたしを殺す?」

「そうです。しかし、彼らは戦略を変えてきたようですね」

「彼ら、って?」

「アレックス・イーノ大佐。地球の軍人です。今回は火星をうまく言いくるめてきたようですね。火星の状況はよほど悪いのでしょう。かわいそうに」

「リンゼイさんたちは?」

「あなたと、このエコーを守るために戦っています」

「そんな…」

教皇様の顔が曇った。

「ごめんなさい、ユードラ。このような事態になるまで、あなたに真実を告げることができなかった。しかし、わかってください。わたしにはどうしてもやり遂げなくてはならないことがあるのです」

「どうしても?」

「そうです。教会の存在はそのためにありました。そして、わたしの人生全ても。そして、そのためにあなたを利用しようとしている」

教皇様の語り口は、わたしにというよりも自分に向けられているようだった。

47. 孤独の終わりは切ない響き

マウリシオは苛ついていた。先代の担当者からここを受け継いで三十年。ネクスト・ジェネレーション計画は急展開を見せている最中だ。エコーのキーとなるユードラは教皇様とコンタクト中、外ではガキどもが火星と地球の連合艦隊と対峙中。

忙しいことだ。

マウリシオは静かで孤独な日々を思い返していた。設備のチェック以外には仕事らしい仕事は無かった。マウリシオがここにやってくる以前からエコーに関する作業は完全に停滞していた。エコーに関する直接の作業は教皇様にしかできなかった。その教皇様でもエコーは困難な仕事なうえ、教皇様の状態は最悪だった。少しでも助けになるようにと、さまざまなデバイスの開発をしては破棄していた。

ユードラ。

彼女は特別だ。教皇様と同じように。それ以上かもしれない。

マウリシオはため息をついた。自分はこの時のために生きてきたというのに、その瞬間にどう向きあえばいいのか、全くわからなかった。今は待つだけの立場が恨めしい。

未来はいったい、誰のために開かれるのだろうか?

48. 突撃

ミラとロドニーは三十二の“種”を撃ち落としていた。妙だった。敵艦から射出される種は、分析では中身はドローンが大半だろう、ということだった。スキャナーでは敵艦は四隻。

リーリェの主砲を警戒してるのだろう、とミラは思った。定数を揃えた部隊を連れてきてるってわけじゃなさそうだ。火星にもそれほど余裕がないんだろうね。

となると、リーリェの主砲の限界を待って何か仕掛けてくるつもりなのだろう。フルコントロールを得ているとはいえ、ミラのポニーだけで全てを片付けるには攻撃の範囲が広すぎる。が、バレルの限界にはまだまだほど遠い。それに、侵入できたとしてもエコーの防衛システムを突破し、そのうえリディアを相手しなきゃいけない。

相当な難事業だ。何か策があるに違いない。

えーと、前はどうだったんだっけ。プロフェットに攻撃を受けたときは、わたしたちがユードラを逃がした。ルイにパワーグリッドを落とされたのはちょっと予定外だったけど、脱出は簡単になったし、結果として内部工作員の存在を明るみにだした。そのおかげもあってリディアの処分は保留になっていたのだ。

たぶん、あの姿を消すコンシール・デバイスを搭載した気持ち悪い船を使ってくるんだろうけど…あれはエコーのスキャナですら感知できないんだろうか?

「ミラ、また来たよ」

種の一団がまた向かってくる。が、いままでと軌道が違う。

「ロドニー、これはなんか仕掛けがあるよ!」

種はまばゆい閃光を発して無数の光の玉に分裂した。

「まずい、スキャナーが飛んだっ」

短距離用のスキャナーのモニターが真っ白になる。回復まで十秒ほど。これは突入に充分な時間、て…

「来たっ!こっちの主砲の死角からなにか接近してる」

ノイズ補正のかかったロドニーの通信が聞こえる。あの船だ。突入してきたのと同じ型。だが遅い。これなら取りつく前に破壊できる。光のパルスが船を穴だらけにする。

が、これも囮だった。敵艦がまた閃光に包まれる。またジャミング。ポニーの装甲が衝撃を受けた。左舷のエンジンに損傷。コノヤロ。素早く回避して現れた船に照準を合わせる。が、その白い船体はすでにエコーの岩盤に食い込んでいた。

しくじった。

「リディア、一隻取りつかせちゃった!あたしもそっちに…」

「いえ、そちらの仕事はまだまだあるみたいですよ」

「えっ?」

種の大群が接近してくるのが回復したスキャナに映る。

「戦闘機も混ざっているようです。そちらの状態は?」

ミラは素早く自己診断プログラムをチェックした。

「なんとか…なるみたい。すぐ回復できそう」

「ロドニーもミラを援護して」

「わかった」

「リディア…」

「任せておいて。よく知っている相手ですから」

49. 眠る構造体

教皇様が見せてくれたものは、大きな黒い三角形だった。ぜんぜん光を反射しないので、そこだけくりぬいたようなかんじに見える。映像が回転してなかったら立体だとわからない。

「これがエコーの外殻構造体です。わたしのプロジェクト、いい名前が思いつかなかったので単にネクスト・ジェネレーションと呼んでいたのですが、結局そのままですね。そのプロジェクトの目的はこのエコーを誕生させることなのです」

よく見ると何枚かの四辺形の薄板の組み合わせでできてるのがわかる。薄板に囲まれた中心にはなにかあるらしい。見つめる教皇様の表情が険しくなる。

「これは宇宙空間で単独の生存を可能にするための外骨格のようなものです。人類は宇宙に生活空間を広げましたが、いまだに外界から遮断された環境がなければ生存できません。それは強化された神官たちでも同じです。わたしは考えました。人間のハードウェアとしてのかたちを一新する必要があると」

三角が拡大され、中心部の透明のコアが大写しになる。詳しいことはわからないが、とんでもなく複雑な構造になっているのはわかる。

は完成しましたが…ここに普通の人間を収めてしまうのでは意味がありません。わたしのプランはこの構造体を宇宙空間で単体生存できる生命体として完成させることなのです」

教皇様は映像を呼び出した。リアルでのわたしと同じようなゼリーの玉だった。

「外殻の開発は順調でした。ですが…わたしの力では、どうしてもを目覚めさせることができなかったのです」

教皇様の顔は、それまで見たことがないくらい苦渋に満ちていた。

「そうこうしているうちにわたしの肉体は劣化し、作業を続けることもままならなくなりました。だからあなたがどうしても必要だった」

教皇様はゼリーの映像だけを表示させた。

「この子は眠ったままです。一番肝心なところでまた失敗作でした」

「また?」

「そうです。わたしの姉様たちの最後は聞いていますね?」

「はい、軌道ステーションで爆破テロに遭ったって…」

「そうです。しかし、その時点で姉様の多くは精神崩壊で廃人同様だったのです」

教皇様の姉さんたち、輝かしい初代スターチャイルドの人たちの映像に切り替わる。姉妹といっても容姿にはあまり共通点がない。ソフィア、アンナ、ヴェーラ、ゾーヤ…。始祖のタチアナ卿は名前こそ祖国風のものを選んだけれど、単一民族を思わせる容姿は避けた。新世代にはふさわしくない、ということらしい。ただ、みんな教皇様と同じピンク色の瞳を持っていた。

「二番目のヴァレンチーナ姉様が最初でした。ヴァレンチーナ姉様は神官が使うオニキス・スキン・システムをはじめて装備したプロトタイプでした。わたしはまだ若くて…そう、ちょうどあなたくらいの成長度合いでした。姉様はスキンの繭に自らを封印してしまいました。漆黒の繭は完全に幾何学的な正確さで滑らかな紡錘形になっていて、後に再現しようとしてみましたが全く及びませんでした。それほど完璧な形だったんですよ。美しかったですね。中に姉様が入っている、という事実がさらに美しさを引き立てていたのかもしれません。古代のミイラというのを知っていますか。あの時間が凝固したようなたたずまい。姉様の体を取り出すのは難しい仕事でしたが、うまくいったように見えました。しかし、姉様は一度だけ…そう、一度だけ涙を流したきり、全く反応を示さなくなりました。生命活動はありましたが、精神マップは完全に不活性になってしまったのです」

映像のプロトタイプの人たちは微笑んでいる。教皇様以外、もう、誰も、生きてない。

「ほかの姉様も次々と…ソフィア姉様などは錯乱し、教会は危うく火星軌道のステーションを失うところでした。そしてプロトタイプのコピーであるスターチャイルドたちにも不安定な兆候を示すものが増えはじめました。これらの情報は厳重に隠蔽されたのですが、真実は現実を動かします。まず、地球と火星に不安が伝染しました。それが巡って姉様たちの狂気、果ては死へと繋がっていったのです。わたしにはスターチャイルドの新しい世代計画を凍結する選択肢しかありませんでした。そして、より制限された能力しか持たない、より従来の人類に近い形で神官たちを創りだしました」

「リンゼイさんたちね」

教皇様の表情がいっそう険しくなる。

「あの子たち…あの子たちは妥協の産物でしかない。あの子たちでは無理なのです。わたしは、わたしの真の後継者を創ることはできなかった」

「そんな…」

「だからあなたが必要だった。姪…そう、姪のあなたが」

「えっ?」

「プロトタイプは十二人だけじゃなかったんです。あなたのお母様はわたしの妹、妹となるべき十三番目の素体だった」

50. 再会

「やはりあなたでしたか」

リンゼイは引きちぎった腕を後ろに放り投げた。白い壁に血の玉が弾ける。リンゼイの光沢のある黒い鎧が青い光を纏っている。

「こういう無謀な作戦でも生身の兵士を送りこんでくるのですね。かわいそうに」

防御システムを突破してリンゼイのところに辿り着くまでに、小隊は半数以上を失っていた。

「あなたが素直にここを明け渡せば私の部下が死ぬこともない」

「あいかわらずユーモアのセンスというものがないですね。笑えません」

「ははは、気の強いお嬢さんだ」

イーノ大佐の鎧はリンゼイのそれとよく似ていた。自由な動きができ、武装が内蔵された両肩の盾、装甲のスカート。カラーリングだけが教会のものとは正反対だった。真っ白い表面にオレンジの輝き。まったく、どこで仕様を手に入れたのやら。色は当てつけですね。金のモールドがあなたらしい。

「さて。残りはあなただけですが」

「最初からこういう予定だ」

「…」

「エコーと融合できるのは、いずれにせよ一人だけだ」

「あなたはエコーを誤解している。あれはあなたの思うようなものではありません」

「私の新たな住まいとしてふさわしくないと?」

「そうです」

「肉体を“エンコード”さえすれば誰でもあの容れ物に入れるのだろう?ミール卿の延命は諦めたそうじゃないか。ならばもはや無用ではないのかね。残念ながら私は地球での立場を失ってしまってね。隠居するには丁度いいだろう」

「やはりあなたは誤解している。あれに融合するためには…」

「ユードラ・アシュレイの力がいる。そうだろう?」

「…」

「さて、いいかげんに道を開けてはくれないか」

この男の皮肉と傲慢さに自分も感染するような気がして、リンゼイは嫌悪を覚えた。

「わたしを殺さなければこの先へ進むことはできません。あなたにできたら、の話ですが」

「やれやれ」

イーノの両肩の白い盾が尖った先をリンゼイに向けた。先端が薄い刃になって伸び、リンゼイに襲いかかった。それをリンゼイの黒い盾が防ぐ。白い刃がうねって弾け、火花が散る。黒い盾の表面を覆う青い光が波紋を描く。盾が軋み、完全な形が崩れる。

「ミール卿があのような状態では装備の更新もままならんようじゃないかね」

そうですね。最新型のサファイアでこの程度ですから。だけど、わたしは負けるわけにはいきません。

リンゼイの盾が反撃を開始した。黒い針が放たれる。

51. あちらを立てればこちらが

最後の戦闘機を爆散させたミラは、苛立っていた。

「リディアを助けにいかなくちゃ…でも、こっちもほっとけないし…ううううう…」

戦闘機編隊は大半の機を失って退却したが、母艦は四隻まるまる無傷で残っている。リーリェの主砲はそろそろ限界だった。だけど、嫌な予感がしてたまらない。リディアを助けにいかなくちゃいけない。いけないんだ。

「ミラ、賭けよう。戦艦は乗り込んできたやつになにかあるまで動かないつもりだ。きっとそうだよ。それにリーリェにはまだ通常装備が残ってる」

「ロドニー、それじゃあんたが…」

「いずれにせよ…ここが勝負所、ってとこじゃないの?」

「そう…そうだね、わかったッ」

52. 母、父、娘、妹、その他親族

「お母様は晩年、わたしたちスターチャイルドがあまりに孤立していることに心を痛めておられました。新たなエリート階級というものがいかに人々の不安を掻き立てるか。そのことについて自身の認識の甘さを嘆いておられました。そして、重大な決断をされました。十三番目以降のプロトタイプの計画を中止する、と」

長いグレーの髪の女の子。母さんだ。

「この計画を知って…いちばん激怒したのはほかでもない、当時プロトタイプのリーダーであった四女のソフィア姉様だったんです。スターチャイルドに対する裏切り行為だ、と。事実上、わたしたちの存在を否定する決定だったのは間違いありませんでしたから。わたしにはお母様の苦悩はなんとなく伝わりましたが、多くの姉様たちはそうではありませんでした。そして…」

教皇様は、見てわかるくらい肩を震わせていた。

「共謀してお母様を殺しました。病死に見せかけて…お母様は…自分の死を予見していたのでしょう。すでに育成段階に入っていたはずの十三番目の娘、ルシールは発見されませんでした。破棄されたのだ、という結論でした。しかし、彼女は凍結されて地球に隠されていた」

教皇様、泣いてる?

「ルシールを発見したのはあなたのお父様なんですよ、ユードラ。ジョナサン・アシュレイ博士はルシールを愛しました。彼女がどういう存在かは知っていたようです。ルシールの生殖機能は、性交は可能でしたが普通の人間と子供を作れるようにはなっていませんでした。神官たちのように」

「じゃあ、わたしはどうやって産まれたんですか?」

「ルシール…ルーシーのほうが通りがいいですね。彼女はあなたと同じ能力を持っていたんです。生命を産み出し、操作する力。わたしのシンセシスと似ているので同じ呼び方で呼ばせていますが、実際はかなり異なる能力です。錬金術というのを知っていますか?」

「父さんがそういうの好きで、小さい頃よく本で読んでました」

教皇様は軽く頷いた。

「わたしとルーシーの能力は錬金術を具現化したものだ、と言えます。卑金属を貴金属に転換するように物質の組成を操る能力はわたしに、ホムンクルスを作るように無生物から生物を生みだす能力はルーシーに。ルーシーは、その能力を使ってジョナサンの遺伝子と自分の遺伝子を組み合わせて…そして産まれたのがあなたでした」

まるで現実感がない話だ。父さんと母さんの幸せそうな映像が出てる。いつ頃のだろう?

「ルーシーが早くに世を去ったのはあなたも知っている通りです。彼女の短命の原因は充分な医療サポートが受けられなかったからです。出自を考えれば無理もないことです。ジョナサンはその頃にわたしにコンタクトを取ってきました。彼はルーシーを再生するつもりでした。彼女の死は自分の責である、と。ジョナサンは静かに語りましたが、わたしは鋭い狂気を感じ取りました。この件はリディアですら知りません」

バラバラの母さんでいっぱいの地下室がフラッシュバックする。気分が悪くなる。

「ジョナサンは娘のあなたの力に期待していたようです。しかし、娘のあなたはルーシーの能力を引き継いではいましたが、ごくごく弱い発現しか示さなかった。そのため、ジョナサンはひとりでルーシーを復活するつもりだったのです」

父さんを抱いて微笑む母さん。その顔が崩れて…

「リディアにあなたを迎えに行かせたとき、正直なところわたしもあまり期待はしていませんでした。先の見えたわたしの最後の希望ではありましたが。わたしは教会の終焉を覚悟していたんです。ところが、あなたの真の力は予想を遥かに超えていた。昏睡状態から目覚めたとき、全てが解放されたのです」

母さんとゼリー以外の映像が消える。

「わたしは…この手で姉様たちを殺した。姉様の子供たち、スターチャイルドを封印した。そうでなければ、ソフィア姉様は破滅的な戦いを始めてしまっていた」

教皇様…なんの話をしてるの?

「爆破テロは地球の原理主義者の手によるものとされています。ふふふ、あの時期ならそれで全て片がついた。誰も唯一のプロトタイプの生き残りのわたしを疑わなかった。残ったスターチャイルドたちにはわたしが希望の星だったんだもの」

怖かった。でも、嫌な感じはしない。ものすごく透明な感じ。

「だって、しょうがないんです。姉様たちは自閉してしまうか、極度のパラノイアか、どちらかになってしまっていた。自分もいずれああなるんじゃないかとわたしは恐れた。宇宙がわたしたちを狂気に導くんです。絶対的な死の感覚。宇宙空間に放りだされればわたしだって一瞬で破裂して、ただの肉塊になってしまいます。はじめて人類が宇宙空間に出てから何百年も経ったというのに、いまだに壁一枚で死と隣り合わせなのです。わたしたちは儚すぎる。だから強い子を作らなければ」

ゼリーが大写しになる。中にうっすら人の形が見える。透きとおった女の子。

「そう思ってエコー…わたしの娘を作ったのですが…結局目覚めてはくれませんでした。だから」

教皇様はわたしをまっすぐ見据えた。いつもの教皇様、はじめて会ったときのあの教皇様に戻っていた。

「あなたに外殻と融合して欲しいのです。わたしの唯一の親族であるあなたに」

ゼリーの女の子が気になってしかたがない。どうしてだろう?

「選択の余地がないのは本当にごめんなさい。勝手なお願いとはわかっています。リディアたちが頑張ってくれてますが、もう時間がないのです。これ以外に方法が…」

リンゼイさん。

「あの…教皇様」

「えっ?」

「従姉妹と話がしたいな」

53. Ebony and Ibory

ここが勝負とみて踏み込んだリンゼイを、予想外の一撃が襲った。

「…っ!」

左の盾が粉々に砕ける。その衝撃で体勢が崩れたところに次の刃が襲ってきたが、リンゼイは致命傷を避けるだけで精一杯だった。飛んできた盾に右腕と右脚を切断され、壁に叩きつけられる。スキンが切り口で溶解している。再生不可能な損傷だった。青い光が行き場を失って火花に散る。

「…やれやれ…ようやく勝負あったようだな」

イーノの鎧は、滑らかな白い表面のあちこちが剥離して、醜いあばたになっていた。オレンジの光が破損箇所をなぞっている。

「もっと簡単かと思っていたが…それが忠誠心というものか」

リンゼイは役に立たなくなったゴーグルを外した。切り口から血が溢れ出している。血と溶けたスキンの混ざった赤黒い液体の玉が浮いてくる。切り離された腕と脚は半分形を失っていた。やっかいな仕掛けがあるみたいですね。喉元に上がってくるものにむせる。血。内蔵もやられてるか。

イーノはゆっくりリンゼイに近寄ってくる。動作がぎこちない。リンゼイのニードル・ショットは何発も直撃した。ダメージは与えている。それでもまだバラバラになっていない。あなたのは執念ですね、とリンゼイは思った。さっきのは必殺の一撃ってやつですか。それにまんまとやられるとは情けない。ここまで追いつめたのに、最後の最後でわたしが冷静さを失うとは。

「息子の仇、とらせてもらう」

「…(ごふ)…あなたが…(ごふごふ)…自ら…手を下したことでは(ごふ)ないですか」

「それが親心というものだ。道を誤った子供に対する、な。すでに息子は死んだも同然だった」

「…勝手な(ごふ)…こと、を…」

「君の敬愛するミール卿だって似たようなものだ。事が済めば君たちを見捨てるつもりなんじゃないのかね?」

「…わたしたちは…」

リンゼイは次の言葉が出なかった。

「そら見たことか。エコーが起動した後のことはなにもない!」

だからって。リンゼイは立ち上がりたかったが、その力は残っていなかった。イーノが銃を取り出し、リンゼイの頭に狙いを定める。動けわたしの体。お願い、あと少しだけ。

54. 透明少女

わたしはエコーのコミュニケーション・インターフェイスに接続した。教皇様とその他もろもろの映像が遠くなる。境界を越えると世界が透きとおった緑になる。緑の世界は球体、に感じられる。中心に眠っている白い肌の半透明の女の子がわたしの従姉妹。エコー。

わたしが音が出るアクションを起こすと、その音が反響して複雑な残響を作る。この子の名前の由来だ。うっとりするような甘い透明な音色。コードを意識してみる。透明さは失わず、豊かな響きになる。なるほど。これじゃ目覚めないのも無理ないや。エコーの世界は完全に閉じてしまっている、というか、彼女からは完全に閉じているように見えるのだ。自分の行動は全て木霊のように返ってくるだけ。

しかし、人格の境界までは接近できている。完全に閉じているのなら漆黒の領域にしかならない。これはバーチャルでもリアルでも同じことだ。

わたしの出す音は聴こえてるだろうか?サウンド・モジュールを呼び出して、様々な周波数とリズムを試してみる。髪がなびく以外、なんの動きも示さなかったエコーの瞳が、瞼の下で動いた気がした。そのときのパターンをシーケンサーで反復する。濃密な残響から発生する周波数帯域のピークをフィルターでトリムし、そこを中心にパターンを変化させてみる。ビーンゴ。

夢から覚める。少女は寝返りをうつ。半透明だったイメージがしっかりしたかたちになる。目を開く。滲むようなピンクの瞳。教皇様のそれだ。

「…お母様?」

「違うよ。わたしはユードラ」

「そう、お母様じゃないの。やっと声が届いたと…思ったのに…」

見えてたんだ。エコーの目が虚ろになる。

「ちょっと待って、また眠らないで!」

「…どうして?」

「わたしは教皇様の代わりにあなたに会いにきたんだ。従姉妹のあなたに」

「従姉妹?」

「うん、わたしもびっくりしたんだけど」

リンゼイさんが着てるみたいな黒いボディスーツが彼女を覆う。緑の光る部分がシンプルなデザインにかわいいアクセントを加えてる。信じられないくらいキュート。

「わたしは…なんでこんな姿なの?これじゃお母様の望むようにはできない」

そのとおり。エコーの外殻に合わせるんだったら、こんな人の姿でいる意味なんかない。ゼリーの状態でコアに流し込めばいいはずだ。でも、教皇様はそうしなかった。なんでだろう。

「…教皇様の望み…」

自分の肉親を自分の手で殺した教皇様。どんな気持ちだったんだろう。姉妹はいまや教皇様ひとりだけ。

わたしもひとりぼっちだったっけ。いや、そうじゃない。父さんと母さんがいなくなってもリチャードがいた。木星に来てからはリンゼイさんにロドニー。

「教皇様は…あなたをひとりにしたくなかったんじゃないかな」

「ひとり?」

「教皇様は孤立してることをものすごく気にしてた。家族が欲しかったんだと思う」

エコーは困った顔になった。

「そんなのおかしいよ。わたしは自分のことをよく知ってる。わたしは人を超えていくものとして創られたんだもの。外殻ハードウェアは、恒星から必要なエネルギーの大部分を生成して活動できるシステムになってるの。生命体としてずっとシンプルで完全なかたちなんだから。それなのに、家族なんて」

「うん、まあ、そうなんだけど…」

「こんな感情モジュールやコミュニケーション・インターフェイスは取り除くべきなの。このせいでわたしは分裂してしまった。ここから出る方法もわからない」

「そのことなら…」

考えを少しまとめてみる。

「どうしたの?」

「わたしがなんとかできると思う。だから、手伝って欲しいんだ。わたしは、わたしを助けてくれた人たちの力になりたい」

55. 夢からの帰還

銃声が響いたが、リンゼイはまだ生きていた。イーノが後ずさる。リンゼイは振り返った。

「マウリシオ…」

クロスボウを抱えたマウリシオがうずくまっている。マウリシオの放った矢はイーノを貫き、イーノの弾丸はマウリシオを貫いていた。

「…これも私の役目だ。気にするな」

マウリシオは自らの血で汚れた顔を上げ、再びクロスボウを構えようとする。

「だめ!逃げ…(ごほごほごほ)」

イーノの銃がバースト・ショットを放つ。乾いたパルスが響き、マウリシオの頭が髪の毛と骨と脳みそと歯と筋肉の混じった肉片になって飛び散る。残った体とクロスボウがねじくれながら壁を跳ねていく。血の帯が軌跡を描く。

「マウリシオ…!(ごふ)」

「…まったく…往生際が悪すぎるぞ」

イーノの息が荒い。胸に受けた矢を引き抜くと、鎧の穴がオレンジの光で塞がれる。

「さて…改めてケリをつけるとしようじゃないか」

わたしを撃つのにわざわざシングル・ショットにしてたのか。とことんもったいぶった方ですね、あなたは。銃口と再び目が合う。リンゼイはスキンが振動するのを感じた。震えている?いや、そうじゃない。リンゼイの目の前の壁面が放電する。パワーグリッドに過負荷がかかってるんだ。

「この…まだおかしな仕掛けが」

イーノが発砲する。一発、二発。尖った銃弾が滑らかに減速し、リンゼイの目の前の空間で停止する。

青と緑の光の渦に包まれた黒い球体が出現する。光の複雑な動きにリンゼイは一瞬我を忘れた。黒い球体が薄い帯の束に分割され、滑らかな白い表面が現れる。人の形。単純な形にディテールが追加され、黒い帯がその白い表面を覆う。わずか数秒のできごとだった。

「ユードラ…!」

「リンゼイさん、助けにきたよ」

青い瞳の少女は振り返った。

「ユードラ…(ごほ)…エコーは…教皇…様は…」

「心配ないよ。従姉妹がなんとかしてくれるから」

ユードラはにっこり笑った。滑らかな黒いワンピースの裾がひらめく。緑の光がジャケットとブーツを彩っていた。

「さて…」

ユードラはイーノに向き直った。

「こいつ、どうしようか」

ユードラはリンゼイをかばう位置に浮いている。イーノの銃口はユードラに真っ直ぐ向いていた。ユードラは銃口を睨みかえす。

「この人、リンゼイさんの大切なものを壊しちゃったんでしょう?夢で見たよ。で、またやってきたんだ。サイテーなやつ」

「小娘になにがわかる…」

「ほら、こうだ。セイイチロウと同じ。人を見下して。でも、もう手遅れだよ」

「なんだと…」

「エコーもわたしもあなたのものなんかにならない、ってこと」

「生意気な!」

バースト・ショットで放たれた銃弾は、またしてもユードラの鼻先で停止していた。

ユードラが手を差し出すと、黒い帯が幾筋も伸びてイーノの鎧に突き刺さる。

「これで終わりだね」

鎧が接合部から割れるように分解する。両腕と両脚がいびつに膨張し、肉が弾け、骨が露出する。鎧に赤い筋が走る。イーノは生命維持以外の機能が完全に停止したことを悟る。なんて化物だ。イーノはくずおれた。

「…殺さないのか」

「あなたの思い通りになんかしない。だから殺さない。あなたは負けたんだから死んだほうがましだって思ってる。それがあなたのプライドってやつなんでしょ。バカみたい」

ユードラはリンゼイのところに漂ってきた。

「リンゼイさん、大丈夫?」

「…(ごふ)…ええ…」

ユードラは泣き出しそうな表情だった。リンゼイの傷口にユードラが指を当てる。指先に緑の光が灯る。崩れていた組織が安定する。リンゼイは温かさを感じた。

「わたし…間に合わなかった。もうちょっとだったのに…絶対、二人とも助けるんだって思ってたのに…リンゼイさんも助けられないんじゃないかって…」

ユードラの目に涙が浮かんだ。リンゼイは残った方の手をそっとユードラの頬に添える。

「…いいんですよ…あなたが帰ってきてくれたのなら…」

ユードラは首を振った。

「でも…」

「エコーはどうなったんですか…」

「あの子も目が覚めたんだよ。教皇様に会いに行くって。彼女、教皇様にそっくり」

ユードラに笑顔が戻った。良かった。リンゼイは意識が薄れてきた。

「そう…ありが…とう」

意識を失ったリンゼイを、ユードラは一度だけぎゅっとして、それから抱きかかえた。

「行こう、リンゼイさん」

イーノは、振り返ったユードラの視線に凍りついた。この世でいちばん恐ろしいものを見た気がした。

「やっぱりあなたも連れてくことにする」

イーノは黒い包帯でたちまちぐるぐる巻きにされた。

56. 女の友情

ユードラがドックの扉を開けると、ミラがロック相手に悪戦苦闘していた。ミラは突然開いた扉と、そこにいる思いがけない人物に一瞬フリーズしていたが、傷ついたリンゼイを確認すると飛びついてきた。

「リディアっ!」

ユードラの腕からリンゼイをひったくって、力まかせに抱きしめる。

「なんてことっ、こんな姿になっちゃってっ!あああっ。あたしがエコーのコードを知らないばっかりにぃ!」

ミラは声を上げて泣きはじめた。

「…機密コード0683…知ってるでしょう…?」

「えっ」

ミラは一瞬で素に戻った。

「…痛いから…そんなにきつく…しないで…」

「アンタ、生きてたの?」

「…残念そうね」

「ああーん」

ミラはまたリンゼイをハグで殺しかけていた。

「ハッ、ユードラ!」

ようやくユードラの存在に気づいたミラが我に返る。

「あなた、戻ってきたんだね」

「ミラさん、はじめまして」

「あたしのこと、知ってるのね」

「うん」

ユードラは笑顔で頷いた。

「エコーのことならもう大丈夫だよ。ただ、マウリシオさんは…」

「…そっか」

また殉死が積み重なったのね。これで終わりになるだろうか。

いきなり通信モジュールが歯の軋むような振動をする。どうにも神官用の装備には慣れない。まったくもう、とミラは思った。通信はロドニーからだった。敵艦隊が動き出したらしい。

「リディア、ユードラ、とりあえず急ぎましょ」

「来てくれてよかった、ミラさん。ここにはシャトルもないんだ」

ユードラがまたリンゼイを抱き上げる。

「リンゼイさん、そういうことだから、傷はもうちょっとガマンしてね。すてきな手足なんだから、元どおりにしなきゃ」

「…教皇様…」

リンゼイはまた眠りに落ちた。

「でさ、それはどうするつもりなのよ?」

ミラは拘束されたイーノを睨みつける。

「一緒に連れてって。いいでしょ?」

ユードラは微笑んだ。ミラですら即座に頷く、恐ろしい笑顔だった。

57. 親子

アナスタシアは目を閉じ、黙想していた。とはいえ、バーチャルでは全部夢のようなものなので、気分の問題なのだが。

外部のチャンネルは遮断していた。怖かった。この時のためにほぼ一世紀を費やしてきた。自分には事の顛末を見届ける義務がある。しかし、その時が来てみるとなんと自分は臆病なことか。

娘、エコーを見捨てたから?なにも知らないかわいそうなユードラになにもかも押しつけたから?

白い空間に緑の光の玉が出現する。ユードラ?決心してくれたのでしょうか…

しかし、現れたものには目を疑うほかなかった。滲むようなピンクの瞳。エコー。

「こんにちわ、お母様」

「エコー!」

長い髪の少女が浮いている。

「ユードラが手伝ってくれたのよ。だから会いに来れた」

「そう、ユードラが…」

「ところでお母様。なんでこんなところに閉じこもってるの?」

エコーは真っ白の周囲を見回した。

「ふふ…わたしは迷ってるんです。あなたが現れるなんて、思ってもみなかったから」

「…お母様。本当に引退しちゃうつもりね?」

アナスタシアは答えない。

「やっぱり。かわいそうなお母様。お母様の傷は深いわ。わたし、よく知ってるもの。ずっと夢で見てた」

エコーは悲しげな顔をする。

「全部、届いてましたか…」

「うん。いつもお母様に話しかけようとしたんだけど、声が出なかった。そのうちお母様は悲しそうに行ってしまう。いつもいつも」

「そう…」

「でも、もう寂しくないわ。わたしがいるもの。だから、もうちょっとだけ…わたしがプロフェットに行くまで待ってて欲しいの。それもダメ?」

アナスタシアは答えない。

「約束よ。今は時間がないの…早くしないとみんな死んじゃうから」

エコーは緑色の光の玉になって消えた。また白い世界。

58. 新しい力

ポニーはドックから飛びだして、小惑星エコーの軌道を防衛シーケンスで周回していた。

「で、ロドニー、艦隊のほうはどうなってんの?」

音声通信でポニーの船室にロドニーの声が響く。

「あの隊形はラフレシアを展開するつもりだね。エコーを丸ごとぶっ飛ばす気だ」

「こっちから先手を打とうか?」

「ダメ」

ユードラが割って入った。

「どーしてよ〜!発射準備が完了するまでになんとかできるでしょ」

「罠だもん。例の見えなくなる装置でレーザートラップが隠されてるよ。まともに突っ込んだらこの機体でもお陀仏」

「アンタ、なんつー古風な言い回しを…」

言いかけてから、ミラはユードラが地球生まれなのを思い出した。そっか。地球出身だったよね。

「って、ちょっとちょっと」

ユードラが横から割って入ってセンサーを操作する。スクリーンに艦隊を囲む網目が現れる。

「ほらね?」

「じゃあ、どうすんのよ!このままじゃエコーは…」

「もうちょっとだけ待って。きっと教皇様が駄々こねてるんだよ」

「え?」

「うう〜ん…教皇様…」

リンゼイが後ろで呻いた。

「…どうしても…で…一緒…わたし…」

途切れ途切れの意味不明な言葉に、ミラは顔をしかめた。

「リディアはあれで大丈夫なの?」

「うん。鎮静剤のせい。怪我はとりあえず応急処置。腕と脚はちょっと時間かかるから」

この子が、ぼんやりしててなにを考えてるかわからなかった、あのユードラとは、ちょっと信じられない。いや、自分たちが見てたのは仮のユードラだったんだけど。

「隣にいる人に気づいたら、ちょっとややこしいかも」

イーノは全身をくまなく黒いバンテージに巻かれていた。

「結局連れてきちゃったけど、どうすんの?」

ユードラはえへへ、と笑った。なに考えてんのかわかんないのは変わらないわね、とミラはため息をついた。

警告音が鳴る。ロドニーからの通信。

「ミラ、ラフレシアが発射体勢に入ってる。急がないと巻き込まれるよ」

敵艦から伸びる赤いワイヤー状の構造体が、コアユニットに接続されていた。ワイヤーは花弁のように編まれていて、名前の通りの花のような形状を構成している。

「えええっ、なんか早くない?離脱するよ」

ユードラはスクリーンに映る、小さくなっていく小惑星をじっと見つめていた。

「来るよ!」

巨大な花が赤い燐光を放ちはじめた。中心部がまばゆい光を放ちはじめる。

「やった!間に合ったね!」

ユードラが叫んだ。

ラフレシアの中央から放たれた強烈な光の奔流は、小惑星の手前で唐突に幾筋もの細い支流に切り裂かれた。支流は小惑星をそれていき、やがてちぎれて虚空に消えていった。

ミラとロドニーはありえない光景を目の当たりにして呆然としていた。センサーが光線が切り裂かれた位置になにかを捉えているのにようやく気づく。

そこでは涙滴型の小さな物体が、鮮やかな緑色に光っていた。物体から緑の光のラインが伸び、巨大な尖った四辺形を四つ、光の線で描く。光で囲まれた面が液体を満たすように漆黒で満たされ、巨大なプレートになって小さなコアをとり囲んだ。巨大な黒い短剣のようだった。

短剣の刃先に緑の光が集中し、白い閃光となる。

「だめだよ、エコー!殺しちゃダメ!」

細いパルス状の光線がラフレシアのコアを撃ち抜いた。フレームが崩壊して散り散りになり、艦隊の陣形が崩れる。

ポニーの通信チャンネルが新しく開いた。ミラはその映像を、一瞬、教皇様と見間違えた。

「こんなのまどろっこしいわ、ユードラ。あの連中、みんな消してしまおうとしたのよ」

「みんな死んじゃったらあなたの怖さを伝える人がいなくなっちゃう。それに、あなたには慈悲の心があるところもきちんと見せないとダメだよ、エコー。そうしないとまた同じことの繰り返しなんだから」

これがエコー。ほんとにそっくり、とミラは思った。緑のストレートヘアでなかったらぜんぜんわからなかっただろう。

「ふーん。外交って面倒なのね」

「…わたしもよくわかんないんだけど。でも、そうだよね、ミラさん」

いきなり話題を振られて、呆気にとられていたミラは慌てた。

「え?あ?うん、そう、そのとおり…かな」

「じゃ、向こうの司令官との交渉、よろしくね。」

ユードラはにっこり笑った。この娘たち、とんでもないコンビなんじゃー…

59. 家路

火星艦隊の司令官は青ざめた顔で外交チャンネルに登場した。儀礼的なやりとりもそこそこに、そそくさと艦隊は去っていった。

「で、そいつは結局どうすんの?」

イーノに関する司令官の返答はにべもなかった。我々は地球軍の援護に来ただけで、作戦の詳細は知らされていない。故にそのような人物について一切関知しない。

「すっかり見捨てられたってわけね〜。自業自得だけど」

一行はプロフェットへの帰還コースをとっていた。エコーは自分より低速なポニーとリーリェに不満たらたらだったが、しぶしぶ後ろをついてきていた。

「お母様が心配なのよ。このエンジンでもわたしだけなら二時間もかかんないわ」

「そんなに近いの?わたしたち、三日もかかったよ?」

とユードラ。

「ぼくらは見つからないようにゆっくり遠回りしたからね。フルドライブじゃ目立ってしょうがないもん」

とロドニー。

「う、あたしってば、速く飛び過ぎた?」

とミラ。

「それはまあ、結果オーライってことで。連中、エコーをずっと監視してたんだ。ユードラがいないとなにも始まらないことを知ってたんだろうね。ユードラの到着を待ってたんだ。そこの“元”大佐は」

「…リンゼイさん、起こそうか」

ユードラは医療キットを操作した。リンゼイが身じろぎする。

「…よく眠れた?」

「…」

リンゼイはゆっくり頭を動かしてまわりを確認した。

「…で…どうなったんですか?」

「火星の船は帰ってったよ。今はプロフェットに向かってるところ。エコーは後ろをついてきてる」

「そう…」

「でね、例の軍人。なんて名前だっけ。あの人も連れてきてるんだ」

リンゼイが飛び起きようとして、自分に繋がれたケーブルに阻止された。ひっくり返りそうになってユードラに支えられる。

「まだ派手な動きは無理だよ。それに、あの人はわたしがぐるぐる巻きにしてるから、なにもできないよ」

「…まったく」

リンゼイは残っている左手で顔を覆った。

「話をさせてください」

ユードラは静かに頷いて、イーノの頭部の拘束を解いた。イーノの表情は恐怖と閉塞感からくるストレスに蝕まれていた。

「私をどうするつもりだ…」

ユードラは無言で、リンゼイがシートに腰掛けるのを手伝い、その場から少し離れたところに漂っていって、所在なげに後ろで手を組んだ。

「このままあなたを宇宙に放りだしたい気分なんですが…」

リンゼイはしばらくの沈黙のあと、静かに切り出した。

「決着はつきました。今のあなたは無力です。これ以上あなたを傷つける理由はありません」

「私を…許す、とでも?」

「まさか。わたしはあなたを絶対に許さない。許せるわけがない。あなたはわたしと、わたしの大切なものを傷つけた敵だから」

「ブライアンを私から奪っていったのはお前だ」

「彼があなたから離れていったのはブライアン本人の意志です。自分の息子はいったいなんだと思っていたのですか?彼がなぜあなたを憎んでいたのか、その理由もあなたにはわからないのでしょう」

「…」

「わたしは私怨による復讐が虚しいことを知っています。起こってしまったことは取り返しがつかないからです。だからといって、わたしの中の深い憎悪が消えるわけではありません。わたしは、この行き場のない暗い憎悪が、いつか自分の破滅を招くと思っていました。わたしがあなたに勝てなかったのはそのせいです。わたしも所詮は怒りに我を忘れる人間だ、ということ」

また沈黙。リンゼイはため息をついた。

「やれやれ、もういいわ。なんでまたお説教なんかしてるんだろう。ばっかみたい」

リンゼイは苦笑した。

「さ、リンゼイさん、怪我を直そっか」

ユードラが微笑みかける。

「えっ、今ですか?」

「うん。教皇様はまだ待ってくれてるはずだから。病院直行はいやでしょ」

ユードラは医療キットからペーストとバンテージを取り出して、パッキングを片っ端から開封し、それをひとまとめにした。

「これで足りる、かな」

ユードラの指先に緑の光が灯り、静かにアルペジオが流れ出す。かたまりが二つに分かれ、ひねられ、徐々に形が整えられる。ほどなくして、完全な腕と脚が形を表した。

「ちょっと痛いかも。我慢して」

ユードラが指でリンゼイの肩に触れると、リンゼイの傷口を保護しているバンテージがするすると剥がれた。

「いっ…!」

傷口が露出し、血が溢れてくる。更にユードラが指でなぞると、痛んでいる組織が剥がれた。鮮血と組織が空間に弾ける。ユードラは抱えていた腕を、本来あるべき場所に合わせて、接合部に指先をあてた。組織が吸い寄せられるように繋がる。リンゼイは感覚が戻ってくるのを感じた。

「次は脚」

「つつつ…」

いつのまにかミラもやってきて、興味津々でユードラの魔法を眺めていた。

「さて、完成。動かせる?」

「少し痺れてるけど…大丈夫」

リンゼイは自分の新しい右手を見つめた。握ったり開いたり。

「しばらくしたら前と変わらなくなるよ。内蔵も損傷してるけど、そっちはたいしたことないからリンゼイさんの再生機能だけで大丈夫。スキン・システムもしばらく控えてね。ミラさん、新しい服はある?」

「ああ、うん」

ミラは生返事をして、倉庫を探りにいった。

「で、あなたはどうする?」

目の前の光景を呆然と見つめていたイーノは、その言葉が自分に向けられてるとは気づかなかった。

「自分で決めてもらっていいよね。ね、リンゼイさん」

「もう、面倒だから、そう、しましょ」

リンゼイは鎧の残骸を剥がすのに手こずっていた。

「そうだね。死にたければここで放りだしてあげる。まだ生きたければプロフェットについたらわたしが怪我を治してあげる。そのあとは好きにすればいい。どうかな」

イーノは、またあの恐ろしい瞳と対峙するはめになった。エコーは通信チャンネルで鼻歌を歌っている。リンゼイは、珊瑚のペンダントが無事なのを確認して安堵した。両手でそっと包みこむ。

60. Home, Sweet Home

プロフェットは普段通り騒がしかった。エコーがやってきたときはかつてない大騒ぎだったので、これでも静寂に思えた。攻撃で受けた損傷はすっかり修復されている。ユードラはカフェで木星を眺めながらレモネードをすすっていた。

エコーはプロフェットに到着すると、いきなりアナスタシアとダイレクトリンクしてそのまま沈黙してしまい、侍女のステラを慌てさせた。十二時間ほど音沙汰が無かったあと、エコーが笑顔で現れた。嘆いたりおろおろしたり鬱だったりしていた神官たちが、わらわら集まってきた。

「ふっふっふ、わたしの勝ちね」

神官たちは歓声を上げた。

観念したアナスタシアは、ユードラによって肉体を復元された。最近は実務からは離れ、リンゼイやミラたちと静かに語らったりして過ごしている。大昔の宗教家、仏陀の説法を思わせる光景だった。

エコーは太陽系内を忙しく飛び回っている。エコーは自らのハードウェア・コアをどう一般化するかについて、アナスタシアやユードラと意見交換のために時々プロフェットに立ち寄った。

「わたしは専用のデザインだからいいけど、そうじゃない人をこのジェリービーンに収めるのは結構大変なのね。ユードラが入ってたら、いったいどういうことになってたのかしら」

「うーん、わたしも特殊だからなぁ」

エコーは、いつかユードラたちが自分と同じハードウェア――エコーは自分の名前とこんがらがってややこしいのでジェリービーンと呼んでいた――を持つことを考えていた。

「だって、こういう生まれになったんだから、ひとりじゃつまんないわ」

木星の軌道を、エコーのオーバードライブの光が舞っている。最近は推進機関の改良に凝っているらしい。

イーノは生きる道を選んだ。回復するまでしばらくプロフェットに滞在して、去っていった。アステロイドベルトあたりで隠匿生活でも送るつもりだ、と言っていた。リンゼイは帰還してからイーノと一度も顔を合わさなかった。

「ここも地球と同じだな。くだらん人間模様が渦巻くばかりだ。もっと全体主義的なものを想像していたんだが。実際にこうやって生活してみると、日常生活に敵意も決意も埋没してしまう」

「嫌なの?」

「さあな。かつての私なら断固拒否しただろうな」

出発の日、ユードラはイーノを見送りに行った。

「見送りがいるとは思わなかったな」

「あのね、最後に聞きたいことがあるんだけど」

「言ってみたまえ」

「リチャード…リチャード・アシュクロフトはどうしてるか知らない?」

「彼は君と一緒に拘束されあと、すぐに釈放された。うちの息子とも連絡を取り合っていたようだな。わたしが地球を追い出されたときはまだあのクラブを経営していたようだ。それからのことは知らん」

「そう…ありがとう」

「礼なら必要ない。我々はそういう関係ではないだろう?」

イーノは表情ひとつ変えなかった。

ミラは大神官として、退任したリンゼイの後任を努めている。エコーの件に関する功績の大きさに、過去の若気の至りの数々は不問になった。

「だけどさ、これってある意味強制労働と同じよね。あたしの意志なんか関係ないんだもん」

ミラは憂鬱そうな長いため息をついた。

「サヤカもドロレスもクソまじめでやりにくいしさ。エコーは人の言うこと聞かないし、教皇様はニコニコしてるだけだし、リディアなんかわたしはもう隠居ですから、とか言ってるし、ロドニーはつかまんないし、こんな話聞いてくれるのアンタだけなのよぉ」

こんな調子でおいおい泣きながらユードラに抱きつくのが、ミラの最近の日課だった。

「でさ。ロドニーとはうまくやってんの?」

急に真顔になって聞くミラに、ユードラは苦笑いと両手を挙げるポーズで答えた。

「ありゃ。そうなの?」

「お互いいろいろあったから。わたしは記憶とか感情が戻ってきたり体も作り直したりで、生まれ変わったみたいなもんだし。ロドニーはマウリシオさんが死んだことがまだ堪えてるみたい」

「そっか…やっぱり尊敬してたんだね。あいつ昔、マウリシオの弟子だったんだ。エコーで働いてたんだよ」

「わたしがアレックスを助けたから、怒ってるのかな、とか」

「聞いてみたの?」

ユードラはふるふると首を振った。

「なんか会っても空気が重苦しくて。いろいろ話しづらいんだ。だから、最近ぜんぜん会ってない」

「アンタはロドニーのこと、好き?」

「…よくわかんないんだ。木星に来たばっかりのときのことは夢の中のことみたいに覚えてる。そのときのわたしは、彼のことがすごく気になってたみたい。でも、今はわかんない」

少し赤くなったユードラを、初々しいわねー、かーわーいーいー、とミラはぎゅっと抱きしめて思いきり頬ずりする。ユードラはまた苦笑いで応えた。

「あたしね、昔アンタみたいな子が親友だったんだ…その子も男の子のことで悩んでたんだ。そっくり」

ユードラの頬を温かい水滴が跳ねた。

「ミラさん?」

「時間…今は時間が必要なのよ…いろいろあったんだから」

リンゼイは、一日の大半を図書館で過ごしている。分厚いレプリカの羊皮紙の本に、ペンとインクで文字を書き込んでいる。ユードラも時々その作業を手伝った。

リンゼイは艶やかなストレートボブだった髪を、ラフなショートヘアに刈り込んでいた。黒い服は相変わらずだったが、スキンは使わなくなっていたので、普通の布の服を着ていた。今日はペチコートのついたロングワンピース。選ぶのは楽しいけど、やっぱり面倒です、と笑った。

「リンゼイさん、最近よく笑うよね」

「ふふ、そうですね。自分でも驚きです」

リンゼイはミルク入りのアールグレイをボトルから味わう。

「ユードラは髪が伸びましたね」

「どうしてもはねちゃうんだ。リンゼイさんが羨ましいよ」

エンゼルフィッシュによく似た宇宙魚が漂ってきて、リンゼイのボトルをつつきだした。宇宙魚は無重力空間を泳ぐ魚によく似た生物で、ユードラがペット用にこしらえたものだ。リンゼイは餌を取り出して与えた。

「この子はこんなにきれいに作ってるのに、自分の髪はどうしようもないなんて、不思議ですね」

「そーなんだよねえ。融通きかないったら」

ユードラはふくれっ面になった。リンゼイがまた笑う。

「リンゼイさん笑いすぎー」

「ごめんなさい。わたしはあなたの髪が好き、ほんとですよ」

「ぶう」

リンゼイはまた書写に戻った。ユードラはぼんやり眺めている。しばらくの沈黙のあと、リンゼイは語りだした。

「わたしは目的や意味がなければ生きられないのだと思っていました。教皇様のプロジェクトを手伝いながら、成功を願いながら、それが終わるのを恐れていました」

リンゼイの筆が止まる。

「…教皇様が生きててくれて…ほんとによかった…もう…会えないか…って…」

浮かんでいるリンゼイの涙を宇宙魚がつついていた。

アナスタシアは果物を育てている。

「ユードラ(もぐもぐ)、まだあるからそんなに(もぐもぐ)急いで食べなくていいですよ(もぐ)」

桃をかじりながらアナスタシアが言う。ユードラは頬をいっぱいにして頷いた。

「食事というものも久しぶりにとってるんですが、昔より料理の味は落ちてる気がするわね」

「(もぐもぐ)そうなの?」

「ええ。レストランに文句言わなくちゃ」

空間に放射状に伸びた桃の木の葉が空気の循環に揺れる。アナスタシアは籠を固定して、ベンチに座った。

「エコーももうちょっとプロフェットに居着いてくれたらいいのにね。用があるときしか帰ってこない。困った娘だわ」

「ネットにはいつもいるよ、あんまり返事しないけどね。あの子にとっては自分の体がどういう状態かっていうのはあんまり関係ないんだ」

「バーチャルじゃ桃は食べられないわ」

アナスタシアは口を尖らせた。

「そういえばエコーは桃なんか食べるのかしらね?」

「覚醒するときに一度わたしと情報体をやりとりしてるから、オリジナルよりは人間の感覚について情報が多いはずだよ」

「本人がそういう気になるかしら」

「エコーはあれでも悩んでるんだよ。人間についてもっと知りたがってるんだ。地球や火星にもこっそり行ってるみたい。あ、これはミラさんには秘密だからね」

「やれやれ」

「あの子は自分の好奇心を満たせる対象を探してる。人間的な性質を持ってしまってるから、生きてるだけじゃ満足できないもんね。しばらくあちこち飛び回ってると思うよ」

「はあ〜。何百年もかけて放蕩娘を育てたなんて、悲壮感漂わせてたわたしはいったい何だったんでしょう。エコーの言う通りね」

「わたしは、エコーが目覚めてここにいるからそういう気持ちになれるんだと思うよ。彼女が目覚めなかったら、いろいろ行き詰まってみんな窒息してたと思うんだ。そうじゃなければ、父さんみたいに頭がおかしくなっちゃうか。エコーがいるから次が見える気がする。そんな子なんだ」

「ユードラ、あなたもね。わたしの我侭をきいてくれて感謝してます、ほんとにありがとう」

ユードラは満面の笑みだった。

「教皇様たちはわたしを助けてくれたんだもん。恩返し。わたしは今、とっても楽しいんだ」

「それじゃ、桃をもうひとついかが?」

「わーい」

「そうそう、皮は剥いたほうがいいですね」

ユードラは聞く前にかぶりついていた。

「あとね、わたしから贈り物があります」

「(もぐもぐ)ふぁに?」

アナスタシアが取り出したのは正方形の紙ジャケットだった。

「それ…」

「ルシールのものと同じにできたかどうか、自信は無いけれど」

中身は透明のレコード盤が二枚。

「わたしたちはあなたの演奏を聴いたことがないんです。聴かせてくれますか?」

ユードラは盤面を指でなぞった。組成が変化して光がチカチカ明滅する。

「…うん、もちろん。もちろん」

61. 飛翔

ユードラはエコーのブレードが緑色に明滅するのを眺めていた。エコーの外装はシンプルな三角形の組み合わせから枚数が増え、鋭い魚の尾鰭のような長短のドライブ・ブレードが後部に何枚もついている。

ユードラはOB8――かつてエコーと呼ばれた小惑星――を周回する軌道をとる。青緑の軌跡が煌めく。ユードラの外装はエコーのそれよりシンプルで、長めのブレードが四枚ついているだけだ。

OB8から飛びだす赤い光が見える。ロドニーだ。うまくいったんだね。

通信を入れる。

「どう、ロドニー。おかしなところはない?」

「あー、うん。なんていうか、全部おかしいからよくわかんないな」

エコーが笑う。

エコーとユードラはロドニーとランデブーする。

「ユードラ?きれいな色だね」

「そうだよ、ありがと。チェックするから接続させて」

「あら、わたしは褒めてくれないの?」

エコーが嫌味を言う。ロドニーが苦笑して謝る。エコーはずいぶん感情が豊かになってきている。ユードラには、それが良いことなのかわからなかった。

ロドニーはジェリービーンの改良を手伝っていた。マウリシオの遺志を継ぐ、ということだった。

「すごい喧嘩もしたけど、彼はぼくの師匠だったんだ。師匠のやりかけの仕事は弟子が引き継がなきゃいけない」

ユードラはロドニーの古風なところに驚いたことを思い返していた。

「うん、特に問題はなし」

「じゃあ、テストも兼ねて太陽の近くまで。ここじゃチャージに時間がかかるもの」

「了解」

ロドニーのブレードが展開される。エコーと同じフルスペックのハイパードライブ・エンジン。

三人はオーバードライブ・モードで太陽に向けて飛翔する。三色の軌跡が後に尾を引く。

「ユードラ、ほんとうにフルスペックのエンジンはいらないの?あなたも一緒に来てくれるんだとばっかり…」

「わたしがいなくなったらジェリービーンを作る人がいなくなっちゃう。教皇様だけじゃ厳しいんだ。それに、わたしはここでやりたいことがまだあるから」

「でもでも…」

エコーのアバターが目を伏せる。

「ん?あー、いいっていいって〜。ロドニーをよろしくねっ」

「えっ、ちょ、ユードラ?」

ふたりのやりとりの微妙なニュアンスがわからないロドニーが口を挟んでくる。まったく、こういうところぜんぜんダメなんだからこいつ。

「エコーと仲良くするんだよぉ。長旅なんだからさぁ〜」

「う…その嫌な笑顔はなんなんだよぉ」

ロドニーが力なく答える。エコーは少し赤くなっていた。目を潤ませてもじもじしている。ユードラは微笑んだ。

太陽の表面で火柱がゆっくり円弧を描くのが見える。プロミネンス。太陽の光は心地よい暖かさに感じられる。ユードラたちはしばらく無言だった。

「あの、ロドニー。悪いんだけど、少し外してくれない?」

エコーの頼みに、ロドニーは頷いてチャンネルから消えた。

「どうしたの?」

「あのね、ユードラ。最近は眠れてる?」

「えっ、えっと、なんでそんないきなり…」

エコーはやっぱり、とため息をついた。

「お願いだから隠さないで。あなたの精神が不安定なのはだいぶ前から気づいてたの」

「そんな…隠しごとなんて」

親に叱られた子供のようにごにょごにょしているユードラに、エコーはきっぱりした調子で続けた。

「わたしとあなたはちょっと特別な関係なの。わたしが誕生するとき情報体を交換したせいで、お互いの感情の動きはなんとなくわかっちゃうのね。あなたが眠っているはずの時間に、わたしは強烈な苦痛のシグナルを感じていたの。それも、日に日に強くなっていってる。でも、普段のユードラはぜんぜん元気で、いつもどおり。心配になったから、お母様に相談してこっそりあなたの精神マップをモニターさせてもらったのよ。ビックリ。ひとりでいるときのあなたはまるで別人。極端な抑鬱状態と神経過敏。ずっと熟睡なんてしたことないみたい。自分で薬を合成してなんとかしてたんでしょ」

「うん…」

「お母様にはあなたをなるべくひとりにしないようにお願いしたの。あなたはものすごく勘がいいからすぐ気がつくと思ったけれど」

エコーはそこで言葉を切って、心の底から心配そうな表情になった。

「お母様からあなたの過去のことは少しだけ聞いたの。あなたがお母様と同じで、過去の重圧と戦ってることも。わたし、ぜんぜん知らなくって…」

「そっか…やっぱり全部バレバレだったか…」

「いろいろ詮索してたことは謝る。お母様以外の誰にも話してないわ」

「いいんだ。わたしも秘密にしててごめん」

「ユードラ…」

しばしの沈黙。

「わたしね、今の生活はすごい楽しいんだ。ほんとだよ。でも、目を閉じたらいろんな光景が鮮やかに甦ってくる。大半は辛いことばっかり。いちばん多いのは、母さんとの最初のお別れ。わたしは母さんが大好きだった。わたしに音楽を教えてくれたから」

ユードラは膝を抱えた。

「いつでもなかなか寝付けなくて、浅い眠りが始まったなと思うと悪夢が始まるんだ。崩れる母さんの体。崩れる自分の体。両手に握った血まみれの内蔵。暗い部屋で繋がれてるわたし。それで飛び起きる。そのあとはぜんぜん眠れない。最近、ますます悪夢と現実が区別つかないくらいリアルになってるんだ」

ユードラは両手で顔を覆う。

「でもね、教皇様にもらったレコードを触ってると少しだけ心のざわつきが収まるんだ。最初は触るだけでいろいろ思い出しちゃって、プレイする前に泣きながら吐いちゃった。でも、どうしても母さんが最初に教えてくれた曲だけは再現しなきゃって思って。 Jupiter Jazz ってタイトルのすっごい昔の曲。音楽で辛いと思ったことなんて初めてだったけど、仕上がった曲を聴いてて」

顔を上げたユードラは笑顔だった。

「やっぱり音楽しなきゃって思った。悪夢とはずっと縁が切れないかもしれない。それでも、わたしには今の力がある。でしょ?」

エコーは笑顔で頷いた。

「さて。そろそろロドニーがいじけちゃうよ」

「えっと…あの、そのことなんだけど…」

「エコーはロドニーが好きなんでしょ?」

「うん…」

「だったら、いいじゃない。すてきな旅になるよ」

エコーのアバターがユードラのアバターを抱きしめる。

「えへへ。エコーは結構胸おっきいよね」

「バカ」

戻ってきたロドニーはひとしきり文句をぶちぶち言っていた。

「それじゃ…行ってくるわ、ユードラ。五つくらいの恒星系を探索してくるつもり。二年くらいで帰ってくる予定だけど、おもしろそうなところが見つかったらもうちょっとかかるかも」

ユードラは、ふたりのハイパードライブの超空間転移の光が収縮して消えてからも、しばらくそこに留まっていた。静寂。ジェリービーンに入ってからもユードラはあまりこのダガーモードでいたことがなかった。

帰ろう。

ユードラのオーバードライブが木星に向けて軌跡を描く。

62. クラブにて

クラブは大入りだった。

ユードラのプレイが終わると喝采で送られた。ユードラは照れくさそうに手を振って、ちょっと考えてから控えめな投げキッスをし、ブースを出ていった。

アナスタシアとリンゼイはVIPルームでくつろいでいた。

「フロアに行きたかったんじゃないですか、リディア」

「わたしは年寄りくさいんです」

「ユードラは良かったですね」

「ええ。泣いちゃうかと思いました」

「あら、そういう音楽でしたか?」

「地球では音楽で感動すると泣くんです」

ユードラがドリンクのボトルをくわえてVIPルームにやってきた。

「どうだった?」

「とても良かったですよ」

「ありがとう」

ユードラはふたりをハグした。

「ミラさん、まだフロアにいるって」

ユードラは手近なクッションに抱きついてうーんと伸びをする。

「人前でやるの、すっごい久しぶりだから緊張しちゃった」

「とてもそうは見えなかったけど、本当?」

「うん。こんなに受けたのもはじめてなんだよ。ちょっとうるってきちゃった」

ユードラはクッションを揉んで感触を楽しんでいる。

「流行のトラックも結構変わったね〜。わたしがやってたころはもっとハードなのが多かったんだ」

「木星も地球もあまり変わらないの?」

「うん。地球でも木星からたくさんトラックが入ってきてた。リチャードが好きで集めてたよ」

「そうなんですか」

「そうだ、リチャードと連絡取ってくれてありがとう」

「リディアの尽力なのよ」

「話はできましたか?」

「うん。びっくりしてた。最近の地球のトラックも送ってくれたよ」

「そう」

「ありがとう、って言えてよかった。あんな別れのままじゃ、お互い一生後悔したと思う」

三人はそのまま黙ってDJがかける音楽の低音を感じていた。

ユードラが目を閉じたまま、語りはじめる。

「わたしね、最近少し眠れるようになってきたんだ。楽しい夢も少しだけど見る。ミラさんが言ってことはホントだった。時間が必要なんだって」

リンゼイとアナスタシアは顔を見合わせて微笑んだ。

63. a life in orbit

エコーとロドニーが帰ってくる日が近づいたので、わたしは実はあんまり好きじゃないってことに気がついたダガーモードで出迎えに行くことにした。宇宙空間でひとりになるのが相当キツいってわかったのは最近になってからだった。あとからひどい気分になって、なんでだろうってずっと思ってた。相当いっぱいいっぱいだったんだな、わたし。

リンゼイさんがチャンネルにいてあげようかって言ってくれたけど、ひとりで行くことにした。

ドックでカプセルを展開して、リングの外に出る。広い空間に出てから、外装を展開する。最後がドライブ・ブレード。自分でやってても魔法みたいだ、って思う。必要な装備は多次元空間に折り畳まれているから、通常の空間では何もないところから突然出現したように見える。

ダガーになるとあんまり関係ないんだけど、一応深呼吸して、それからランデブーポイントに向かう。オーバードライブで七日間。出発したのと同じ、太陽の周回軌道。

ジェリービーンに移行するプロジェクトはちょっとずつ進んでる。教皇様とわたしでコアは十セットほど完成させた。問題は入る人の優先順位をどうやって決めるかってことで、これは政治の問題。アレックスみたいな人はまた現れるだろう。

退屈な巡航中は、体感時間を変えて五秒に圧縮したりしてもいいんだけど、今回はリアルタイム。

わたしの新しい人生の運命の輪は回りはじめた。この先どうなるかはわからないけど、今はうまくやっていけそうな気がする。レギュラーのショーもこなしてる。このまま軌道に乗っていけばいい。

エコーからのハイパーメールは何通か届いてて、映像も添付してあった。青白い星と真っ白い星の連星。暗い赤色巨星。惑星も何個か見つけたらしい。木星みたいな縞の星もあった。

リチャードに送ってもらったミックスを聴きながら考えた。まず、なにから話そうかな。

<おしまい>

あとがき

「a life in orbit」は、卒業制作で書いた映画用シナリオが最初のバージョンでした。白状しておくと、ブルース・スターリングの工作者/機械主義者シリーズ、特に「蝉の女王」という短編に多大な影響を受けて着想されました。

若かりしぼくにはネタがうまく消化できず、二度と読み返したくない駄作とあいなりました。手元にも残っていません。ただ、同じネタでちゃんと書きたいという思いだけはあったので、『週刊ちまみれ』で描きなさいという啓示を受けたとき、これ幸いと書き直してみることにしました。今度はマンガで。

しかし、この長大なストーリーをぼくの技量でマンガにするにはかなり無理がありました。描ける量と残りの量のギャップに絶望することしばし。また挫折ってわけです。

どうしても完結させたいとムキになったぼくは、散々ブログも書き散らかしてるし文章ならなんとかなるだろうと、強引に小説バージョンをはじめました。

そして遂に、文豪気分を味わうために一度書いてみたいと思っていたこのあとがきを書くところまでこぎつけたわけです。イヤッホーゥ。

おもしろいか、と言われるとわかりません。 SF っぽい話ですが、テーマは未来予測とか科学理論とか、そういうことではありません。技術的にはしょっぱいところが目立ちます。一応未来の話なので、時代を感じさせるような言葉、比喩なんかが使えなくてぎこちなくなってしまってるところもあちこち。

それでも書いた本人は満足してます。最大の目標はやりたい放題書くことで、その点ではかなり成功しました。書き直してばっかりではありましたが。

何人いるのかわかりませんが、最後まで読んでくれた方、ありがとう。

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